蠅男 海野十三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)蠅男《はえおとこ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一種|香《かん》ばしいような [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と床上に -------------------------------------------------------    発端  問題の「蠅男《はえおとこ》」と呼ばれる不可思議なる人物は、案外その以前から、われわれとおなじ空気を吸っていたのだ。  只《ただ》われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに棲息《せいそく》していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。  まことにわれわれは、へいぜい目にも耳にもさとく、裏街の抜け裏の一つ一つはいうにおよばず、溝板《どぶいた》の下に三日前から転がっている鼠《ねずみ》の死骸《しがい》にいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずの愕《おどろ》くべきもの[#「もの」に傍点]が、誰にも知られることなく密かに埋没《まいぼつ》されているのである。  この「蠅男」の話にしても、ことによるとわれわれは、生涯この奇怪なる人物のことをしらずにすんだかも知れないのだ。なにしろこの「蠅男」がまだ世間の注意をひかないまえにおいては、これを知っていたのは「蠅男」自身と、そしてほかにもう一人の人間だけだった。しかもその人間は、事実彼の口からは「蠅男」の秘密をついに一言半句《いちごんはんく》も誰にも喋《しゃべ》りはしなかったのだから、あとは「蠅男」さえ自分で喋らなければ、いつまでも秘中の秘としてソッとして置くことができたはずだった。「蠅男」も決して喋りはしなかった。なんといっても彼自身の秘密は、世間に知られて好ましいものではなかったから。  それほど堅い大秘事が、どうして世間に知られるようにはなったのであろうか?  それは、臭《にお》いであった。  煤煙《ばいえん》の臥床《ふしど》に熟睡していたグレート大阪《おおさか》が、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡い厭《いや》な臭気こそ、この恐ろしい「蠅男」事件の発端であったのだ。    妙《みょう》な臭《にお》い  大阪人は早起きだ。  それは師走《しわす》に入って間もない日の或る寒い朝のこと、まだあたりはほの明るくなったばかりの午前六時というに、商家の表戸はガラガラとくり開かれ、しもた[#「しもた」に傍点]家では天窓がゴソリと引き開けられた。旅館でも病院でも学校でも、鎧戸《よろいど》の入った窓がバタンバタンと外へ開かれ、遠くの方からバスのエンジンの音が地響をうって聞えてくる。…… 「なんやら。——怪《け》ったいな臭《かざ》がしとる」 「怪ったいな臭?——やっぱりそうやった。今朝からうち[#「うち」に傍点]の鼻が、どうかしてしもたんやろと思とったんやしイ。——ほんまに怪ったいな臭やなア」 「ほんまに、怪ったいな臭や。何を焼いてんねやろ」  旅館の裏口を開いて外へ出たコックとお手伝いさんとは、鼻をクンクンいわせて、同じような渋面《しぶつら》を作りあった。  ここは大阪の南部、住吉区《すみよしく》の帝塚山《てづかやま》とよばれる一区画の朝だった。 「この臭《かざ》は、ちょっとアレに似とるやないか」 「えッ、アレいうたら何のことや」 「アレいうたら——そら、焼場の臭や」 「ああ、焼場の臭?」お手伝いさんは白いエプロンを急いで鼻にあてた。「そうやそうやそうや。うわァこら焼場の臭《にお》いやがナ」  そのうちに、臭いを気にする連中が、あとからあとへと起きてきて、てんでに廂《ひさし》を見上げたり、炊きつけたばかりの竈《かまど》の下を気にしたりした。だがこの淡い臭気が、一たい何処から発散しているものか、それを突き止めた者は誰もなかった。  ワイワイと、近所の騒ぎはますます激しくなっていった。しかも臭気はますます無遠慮《ぶえんりょ》に、住民たちの鼻と口とを襲った。  東京のビジネス・センター有楽町に事務所をもつ有名な青年探偵の帆村荘六《ほむらそうろく》も、この騒ぎのなかに、旅館の蒲団《ふとん》の中に目ざめた。彼は或る重大事件の調査のため、はるばるこの大阪へ来ていたのだった。そして昨夜から、このマスヤ旅館に宿泊していた。 「——や、どうも。帝塚山はたいへん静かだという話だったが、こう騒々しいところをみると、あれはわざと逆の言葉を使って、皮肉を飛ばしたつもりなのかしら」  彼は寝不足の充血した目をこすりながら、起きあがった。そして丹前《たんぜん》を羽織《はお》ると、縁側に出て、雨戸をガラガラと開いた。とたんに彼は、狆《ちん》のように顔をしかめて、 「おう、臭《くさ》い。へんな臭《にお》いがする」  と吐きだすように云った。  前の往来で、臭《かざ》評定をしていた近所のうるさ方一同は、突然ガラガラと開いた雨戸の音に愕《おどろ》いて、ハッとお喋りを中止したが、帆村が自分たちと同じように鼻をクンクンいわせているのを見上げるや、一せいにニヤニヤ笑いだした。 「お客さん。怪《け》ったいな臭がしとりますやろ」 「おう。これは何処でやっているのかネ。ひどいネ」 「さあ何処やろかしらんいうて、いま相談してまんねけれど、ハッキリ何処やら分らしめへん。——お客さん、これ何の臭《かざ》や、分ってですか」 「さあ、こいつは——」  とはいったが、帆村はあとの言葉をそのまま嚥《の》みこんだ。そして彼は帯を締めなおすと、トントンと階段を下りて、玄関から外に出た。 「えらい早うまんな。お散歩どすか」  奥から飛んで出てきた仲働きのお手伝いさんが、慌《あわ》てて宿屋の焼印《やきいん》のある下駄《げた》を踏石の上に揃えた。 「ああ、この辺はいつもこんな臭いがするところなのかネ」 「いいえイナ。こないな妙な臭《かざ》は、今朝が初めてだす」 「そうかい。——で、この辺から一番近い火葬場は何処で、何町ぐらいあるネ」 「さあ、焼場で一番ちかいところ云うたら——天草《あまくさ》だすな。ここから西南に当ってまっしゃろな、道のりは小一里ありますな」 「ウム小一里、あまくさ[#「あまくさ」に傍点]ですか」 「これ、天草の焼場の臭いでっしゃろか」 「さあ、そいつはどうも何ともいえないネ」  帆村は「行っておいでやす」の声に送られて、ブラリと外に出た。別に彼は、この朝の臭気を嗅いで、それを事件と直覚したわけでもなく、またこんな旅先で彼の仕事とも関係のないことを細かくほじくる気もなかった。けれど、彼の全身にみなぎっている真実を求める心は、主人公の気づかぬ間に、いつしか彼を散歩と称して、臭気《しゅうき》漂《ただよ》う真只中《まっただなか》に押しやっていたのだった。  それは一種|香《かん》ばしいような、そして官能的なところもある悪臭だった。彼は歩いているうちに、臭気がたいへん濃く沈澱《ちんでん》している地区と、そうでなく臭気の淡い地区とがあるのを発見した。 (これは案外、近いところから臭気が出ているに違いない!)  臭気の源《みなもと》は案外近いところにある。もしそれが遠いところにあるものなれば、臭気は十分ひろがっていて、どこで嗅いでも同じ程度の臭気しかしない筈だった。だから彼は、この場合、臭気の源を程近い所と推定したのだった。  では近いとすれば、このような臭気を一体何処から出しているのだろう?  帆村は再び踵《きびす》をかえして、臭気が一番ひどく感ぜられた地区の方へ歩いていった。それは丁度或る町角になっていた。彼はそこに突立ったまま、しばらく四囲《あたり》を見まわしていたが、やがてポンと手をうった。 「——おお、あすこにいいものがあった。あれだ、あれだ」  そういった帆村の両眼は、人家の屋根の上をつきぬいてニョッキリ聳《そび》えたっている一つの消防派出所の大櫓《おおやぐら》にピンづけになっていた。  あの半鐘櫓《はんしょうやぐら》は、そもいかなる秘密を語ろうとはする?    灰色の奇人館 「オーイ君、なにか臭くはないかア」  と、帆村は櫓の下から、上を向いて叫んだ。  上では、丹前に宿屋の帯をしめた若い男が、櫓下でなにか喚《わめ》きたてているのに気がついた。といって彼は当番で見張り中の消防手なのだから、下りるわけにも行かない。そこでおいでおいでをして、梯子を上ってこいという意味の合図をした。 「よオし、ではいま上る——」  帆村荘六は、そこで尻端折《しりはしょ》りをして、冷い鉄梯子《てつばしご》につかまった。そして下駄をはいたまま、エッチラオッチラ上にのぼっていった。上にのぼるにつれ、すこし風が出てきて、彼は剃刀《かみそり》で撫でられるような冷さを頬に感じた。 「——なんですねン、下からえらい喚《わめ》いていてだしたが」  と、制服の外套の襟《えり》で頤《あご》を深く埋《うず》めた四十男の消防手が訊《き》いた。彼は帆村が下駄をはいて上ってきたのに、すこし呆《あき》れている風だった。 「おお、このへんな臭いだ。ここでもよく臭いますね。この臭いはいつから臭っていましたか」 「ああこの怪ったいな臭いですかいな。これ昨夜《ゆうべ》からしてましたがな。さよう、十時ごろでしたな。おう今、えらいプンプンしますな」 「そうですか。昨夜の十時ごろからですか」と帆村は肯《うなず》いて、今はもう八時だから丁度十時間経ったわけだなと思った。 「一体どの辺から匂ってくるのでしょう」 「さあ?」  と、消防手は首をかしげて、帆村の顔を見守るばかりだった。彼はどうやら、帆村の職業をそれと察したらしかった。 「風は昨夜から、どんな風に変りましたか」 「ああ風だすか。風は、そうですなア、今も昨夜も、ちっとも変ってえしまへん。北西の風だす」  消防手だけに、風向きをよく知っている。 「北西というと、こっちになりますね。どうです、消防手さん。こっちの方向に、なにかこう煙の上っているようなところは見えないでしょうか」  帆村の指す方角に、人のいい消防手はチラリと目をやったが、 「さよですなア、ちょっと見てみまひょう」  といって、首にかけていた望遠鏡を慣れた手つきで取出すと、長く伸ばして、一方の眼におしあてた。 「いかがです。なにか見えるでしょう」 「さあ——ちょっと待っとくなはれ」  と、彼は望遠鏡をしきりに伸《の》ばしたり縮《ちぢ》めたりしていたが、そのうちに、 「——ああ、あれかもしれへん」  と、頓狂《とんきょう》な声を出した。 「ええッ、ありましたか」  帆村は思わず、消防手の肩に手をかけた。 「三町ほど向うだす。岸姫《きしひめ》町というところだすな。まあ、これに違いないやろ思いまっさ。ひとつ覗《のぞ》いてごらん」  帆村は、消防手のたすけを借りて、望遠鏡越しにその岸姫町の方をじっと眺めてみた。 「——な、見えますやろ。どえらい不細工《ぶさいく》な倉庫か病院かというような灰色の建物が見えまっしゃろ」 「ああ、これだな」 「見えましたやろ。そしたら、その屋根の上から突き出しとる幅の広い煙突《えんとつ》をごらん。なんやしらん、セメンが一部|剥《は》がれて、赤煉瓦《あかれんが》が出てるようだすな」 「ウン、見える見える」 「見えてでしたら、その煙突の上をごらん。煙が薄く出ていまっしゃろ、茶色の煙が……」 「おお出ている出ている、茶色の煙がねえ」  帆村は、腕がしびれるほど、望遠鏡をもちあげて、破れ煙突から出る煙をジッと見守っていた。  あの煙突から、昨夜の十時から今朝までも、あのとおり煙が出っ放しなんだろうか? そしてあの煙突の下に、果して臭気の原因があるのだろうか? 「あの建物は、なんですかねえ」 「さあ詳しいことは知りまへんけど、この辺の人は、あれを『奇人館』というてます。あの家には、年齢《とし》のハッキリせん男が一人住んでいるそうやと云うことだす」 「ほう、それはあの家の主人ですか」 「そうだっしゃろな。なんでも元は由緒あるドクトルかなんかやったということだす」 「外に同居人はいないのですか、お手伝いさんとか」 「そんなものは一人も居らへんということだす。尤《もっと》も出入の米屋さんとか酒屋さんとかがおますけれど、家の中のことは、とんと分らへんと云うとります」 「そのドクトルとかいう人物とは顔を合わさないのですか」 「そらもう合わすどころやあれへん。まず注文はすべて電話でしますのや。商人は品物をもっていって、裏口の外から開く押入《おしいれ》のようなところに置いてくるだけや云うてました。するとそこに代金が現金で置いてありますのや。それを黙って拾うてくるんやと、こないな話だすな。そやさかい向うの家の仁《じん》に顔を合わさしまへん」 「ずいぶん変った家ですね。——とにかくこれから一つ行ってみましょう」  そういっているところへ、電話のベルがけたたましく鳴りだした。消防手は素早《すばや》く塔上の小室に飛びこんで、しきりに大声で答えていた。それは同じくこの臭気に関するもののようであった。それは消防手が再び帆村の前に現われたとき明白になった。 「——いま警察から電話が懸《かか》ってきましてん。この怪《け》ったいな臭《かざ》がお前とこから見えてえへんか云う質問だす。こら、なんか間違いごとが起ったんですなア。やあえらいことになりましたなあ」    旅行中の貼り札  帆村はその足で、すぐさま奇人館の前に行った。  なるほど、それは実に奇妙な建物だった。よく病院の標本室に入ると、大きな砂糖|壜《びん》のような硝子《ガラス》器の中に、アルコール漬けになって、心臓や肺臓や、ときとすると子宮《しきゅう》などという臓器が、すっかり色彩というものを失ってしまって、どれを見てもただ灰色の塊《かたまり》でしかないというのが見られる。この奇人館はどこかそのアルコール漬けの臓器に似ていた。  灰色の部厚いコンクリートの塀、そのすぐ後に迫って、膨《ふく》れ上ったような壁体《へきたい》でグルリと囲んだ函のような建物。——それらは幾十年の寒さ暑さに遭《あ》って、壁体の上には稲妻のような罅《ひび》が斜めにながく走り、雨にさんざんにうたれては、一面に世界地図のような汚斑《しみ》がべったりとつき、見るからにゾッとするような陰惨《いんさん》な邸宅《ていたく》だった。  それでも往来に面したところには、赤く錆《さ》びてはいるが鉄柵づくりの門があり、それをとおして石段の上に、重い鉄の扉《ドア》のはまった玄関が見えていた。 「おおあすこに何か貼り札がしてある!」  その玄関の扉のハンドルに、斜めになって文字をかいた厚紙が懸っているのを帆村は見た。なんと書いてあるのだろう。彼は光線のとおらないところにある掲示を、苦心して読み取った。  ——当分旅行ニツキ訪問ヲ謝絶《シャゼツ》ス。十一月三十日、鴨下《カモシタ》—— 「ウン、鴨下——というか。ここの主人公の名前だな。その主人公は旅行に出かけたという掲示《けいじ》だ。なアんだ。中は留守じゃないか」  帆村はちょっとガッカリした。  だが、よく考えてみると、留守は留守でも、それは十一月三十日に出ていったのだから、一昨日《おととい》の出来ごとだった。それだのに、昨夜からずっとこの方、煙突から煙が出ているというのは一体どうしたことだろう? 「鴨下ドクトルが、ストーブの火を燃しつけていったのかしら。しかしそれなら、一昨日の夜も昨日の朝も昼間も、別に煙が出なかったのはどうしたわけだろう」  とにかく無人《むじん》であるべき家の煙突から、モクモクと煙が上るというのはどう考えても合点がゆかないことだ。どうしても、中に誰か居て、ストーブに火を点けたのでなければ話が合わない。もし人が居るとしたら、誰が居るのだろう。鴨下ドクトルが出ていった後に、一体誰が残っているというのだろう?  奇人館の怪事を、何と解こうか。  帆村が門前に腕組をして考えこんでいるときだった。丁度《ちょうど》そこへ、街の異変を聞きこんだ所轄《しょかつ》警察署の警官たちが自動車にのって駈けつけてきた。 「さあ、早いとこ、お前はベルを押せ。なにベルがない。探せ探せ。どこかにある筈《はず》や」  と指揮の巡査部長が大童《おおわらわ》の号令ぶりをみせた。 「——それから別に、お前とお前とで、この鉄の門を越えて、玄関の戸を叩いてみい」  声の下に、二名の警官が勇しく鉄の門に蝗《いなご》のように飛びついた。 「さあ、お前ら三名、裏口へ廻れ、一人は連絡やぜ」  部下を四方へ散らばせると、巡査部長は帽子の頤紐《あごひも》をゆるめて、頤に掛けた。そして鼻をクンクン鳴らして、 「うわーッ、こらどうもならん臭さや。なにをしよったんやろ、奇人ドクトルは……」  そのとき帆村は横合《よこあい》から声をかけた。 「おおこれは帆村はんだすな。まだ御泊《おとま》りでしたか。えらいところをごらんに入れますわ、ハッハッハッ」  検事の村松氏に案内されていったとき、知合いになった住吉署の大川巡査部長であった。帆村は邪魔にならぬように、傍《そば》についていた。  裏口に廻った部下の一人が帰ってきて、二階の西側の鎧窓《よろいまど》に鍵のかかっていないところがあって、そこから中へ這入れると報告をした。大川は悦《よろこ》んで、 「よし、そこから這入《はい》れ、三人外に残して、残り皆で這入るんや。俺も這入ったる」  巡査部長は、佩剣《はいけん》を左手で握って、裏口へ飛びこんでいった。帆村もそのまま一行の後に続いていった。  樋を伝わって、屋根にのぼり、グルリと壁づたいに廻ってゆくと、なるほど四尺ほど上に鎧戸の入った窓がポッカリ明いていて、そこから一人の警官がヒョイと顔を出した。 「中は、ひっそり閑《かん》としてまっせ」 「そうか。——油断はでけへんぞ。カーテンの蔭かどこかに隠れていて、ばアというつもりかもしれへん。さあ皆入った。さしあたり煙突に続いている台所とかストーブとかいう見当《けんとう》を確かめてみい」  勇敢なる巡査部長は、先頭に立って、腐《くさ》りかかった鎧戸を押して、薄暗い内部にとび下りた。一行は、最初の警官を窓のところに張り番に残して、ソロソロと前進を開始した。  帆村も丹前の端《はし》を高々と端折《はしょ》って、腕まくりをし、一行の後からついていった。  たいへん曲りくねって階段や廊下がつづいていた。外から見るような簡単な構造ではない。大小いくつかの部屋があるが、悉《ことごと》く洋間になっていて、日本間らしいものは見当らなかった。  家の中に入ると、不思議とあの変な臭気は薄れた。そしてそれに代って、ひどく鼻をつくのが消毒剤のクレゾール石鹸液の芳香《ほうこう》だった。 「ここ病院の古手《ふるて》と違うか」 「あほぬかせ。ここの大将が、なんでも洋行を永くしていた医者や云う話や」 「ああそうかそうか。それで鴨下ドクトルちゅうのやな。こんなところに診察室を作っておいて、誰を診《み》るのやろ」 「コラ、ちと静かにせんか」  巡査部長の一喝《いっかつ》で、若い警官たちはグッと唇を噤《つぐ》んだ。  いくら跫音《あしおと》を忍ばせても、ギシギシ鳴る大階段を、下に下りてゆくと、思いがけなく大きい広間に出た。スイッチをパチンと押して、電灯をつけてみる。 「ああ——」  これは主人の鴨下ドクトルの自慢の飾りでもあろうか、一世紀ほど前の中欧ドイツの名画によく見るような地味な、それでいてどことなく官能的な部屋飾りだ。高い壁の上には誰とも知れぬがプロシア人らしい学者風の人物画が三枚ほど懸っている。横の方の壁には、これも独逸《ドイツ》文字でギッシリと説明のつけてある人体解剖図と、骨骼及び筋肉図の大掲図《だいけいず》とが一対をなしてダラリと下っている。  色が褪《あ》せたけれど、黒のふちをとった黄色い絨毯《じゅうたん》が、ドーンと床の上に拡がっていた。そして紫檀《したん》に似た材で作ってある大きな角|卓子《テーブル》が、その中央に置いてある。その上には、もとは燃えるような緑色だったらしい卓子掛けが載って居り、その上には何のつもりか、古い洋燈《ランプ》がただ一つ置かれてあった。  室内には、この外に、奇妙な飾りのある高い椅子が三つ、深々とした安楽椅子が四つ、それから長椅子が一つ、いずれも壁ぎわにキチンと並んでいた。  もう一つ、書き落としてはならないものがあった。それはこの部屋にはむしろ不似合なほどの大|暖炉《ストーブ》だった。まわりは黒と藍《あい》との斑紋《はんもん》もうつくしい大理石に囲われて居り、大きなマントルピースの上には、置時計その他の雑品が並んでいた。しかもその火床《かしょう》には、大きな石炭が抛《ほう》りこまれて居り、メラメラと赤い焔をあげて、今や盛んに燃えているところだった。 「これやア。えろう燃やしたもんや。ムンムンするわい」  と、巡査部長はストーブの方に近づいた。 「ほほう、こらおかしい。傍へよると、妙な臭《かざ》がしよる——」 「えッ。——」  一同は、愕《おどろ》いてストーブの傍に駆けよった。    崩《くず》れる白骨《はっこつ》 「これ見い。こんなところに、妙な色をした脂《あぶら》みたよなもんが溜っとるわ」  と大川部長は、火かきの先で、火床《かしょう》の前の煉瓦敷《れんがじ》きの上に溜っている赤黒いペンキのようなものを突いた。 「何でっしゃろな」 「さあ——こいつが臭《にお》うのやぜ」  と云っているとき、巡査部長のうしろから帆村が突然声をかけた。 「これア大変なものが見える。大川さん。火床の中に、人骨《じんこつ》らしいものが散らばっていますぜ?」 「ええッ、人骨が——。どこに?」 「ホラ、今燃えている一等大きい石炭の向う側に——。見えるでしょう」 「おお、あれか。なるほど肋骨《ろっこつ》みたいや。これはえらいこっちゃ。いま出して見まっさ」  さすがは場数《ばかず》を踏んだ巡査部長だけあって、口では愕《おどろ》いても、態度はしっかりしたものだ。腰をかがめると、火掻《ひか》き棒《ぼう》で、その肋骨らしいものを火のなかから手前へ掻きだした。 「フーン。これはどう見たって、大人の肋骨や。どうも右の第二|真肋骨《しんろっこつ》らしいナ」 「こんなものがあるようでは、もっとその辺に落ちてやしませんか」 「そうやな。こら、えらいこっちゃ。——おお鎖骨《さこつ》があった。まだあるぜ。——」  大川は灰の中から、人骨をいくつも掘りだした。その数は皆で、五つ六つとなった。 「——もう有りまへんな。こうっと、胸の辺の骨ばかりやが、わりあいに数が少いなア」  と、彼は不審《ふしん》の面持で、なにごとかを考えている様子だった。  それにしても人骨である限り、主人の留守になった建物の中のストーブに、こんなものが入っているとは、なんという愕くべきことだろう。一体この骨の主は、何者だろう。 「あのひどい臭気から推して考えると、もっと骨が見つかるはずですね」と帆村が云った。彼は跼《かが》んで、しばらくストーブの中をいろいろな角度から覗きこんでいたが、ややあって、ひどく愕いたような声をだした。 「呀《あ》ッ。ありましたありました。肋骨が一本、ストーブの煙道《えんどう》のところからブラ下っていますよ。煙道の中が怪しい」 「ナニ煙道の中が……」と、顔色をサッと変えた大川巡査部長は、火掻き棒を右手にグッと握ると、燃えさかる石炭をすこし横に除け、それから下から上に向って火掻き棒をズーッと挿しこみ、力まかせにそこらを掻きまわした。それはすこし乱暴すぎる行いではあったが、たしかに手応《てごた》えはあった。  ガラガラガラという大きな音とともに、煙道の中からドッと下に落ちてきた大きなものがあった。それは、同時に下に吹きだした黒い煤や白い灰に距《へだ》てられて、しばらくは何物とも見分けがたかったけれど、その灰燼《かいじん》がやや鎮《しず》まり、思わずストーブの前から飛びのいた警官たちがソロソロ元のように近づいたころには、もう疑いもなく、煙道の中から落ちてきた物件が何物であるかが明瞭《めいりょう》になった。  半焼けの屍体《したい》!  それはずいぶん奇妙な恰好をしていた。半ば骨になった二本の脚が、火床の上にピーンと天井を向いて突立っていた。  それは逆さになって、この煙道の中に入っていたものらしく、胸部や腹部は、もう完全に焼けて、骨と灰とになり、ずっと上の方にあった脚部が、半焼けの状態で、そのまま上から摺《す》り落《お》ちてきたのだった。  男か女か、老人か若者か。——そんなことは、ちょっと見たくらいで判別がつくものではなかった。 「コラ失敗《しも》うた。検事さんから、大きなお眼玉ものやがな。下から突きあげんと、あのまま抛《ほ》っといたらよかったのになア」  と、巡査部長は火掻き棒を握ったまま、大きな溜息《ためいき》をついた。 「もうこうなったら、仕方がありませんよ。それより、今燃えかかっている石炭の火を消して、あの脚をなるべく今のままで保存することにしては如何ですか」  帆村は慰《なぐさ》め半分、いいところを注意した。 「そうだすなア」と大川は膝を叩いて、後をふりかえり、 「オイ、お前ちょっと水を汲んできて、柄杓《ひしゃく》でしずかにこの火を消してんか。大急ぎやぜ」  それから彼は、もう一人の警官に命じて、電話を見つけ、本署に急報するようにいいつけた。  帆村は、そのときソッと其《そ》の場を外《はず》した。部屋を出るとき、ふりかえってみると、大川巡査部長は長椅子の上にドッカと腰うちかけ、帽子を脱いていたが、毬栗頭《いがぐりあたま》からはポッポッポッと、さかんに湯気が上っているのが見えた。    不意打《ふいう》ち  いかに帆村といえども、内心この恐ろしい惨劇《さんげき》について、愕《おどろ》きの目をみはらないではいられなかった。主人|鴨下《かもした》ドクトルの留守中に、ストーブの中で焼かれた半焼屍体《はんしょうしたい》? 一体どうした筋道から、こうした怪事件が起ったかは分らないけれど、とにかくこの家のうちには、もっともっと秘密が伏在《ふくざい》しているのであろう。彼はこの際、できるだけの捜査材料を見つけだして置きたいと思った。 「ほう、これは廊下だ。——向うに化粧室らしいものが見える。よし、あの中を調べてみよう」  彼は勇躍《ゆうやく》して、化粧室の扉を押した。 「この家のうちに、主人鴨下ドクトルのほかに、誰か居たかが分ると面白いんだが——」  彼の狙《ねら》いは、さすがに賢明だった。  化粧室を入ったところの正面に、大きな鏡が一枚|掲《かか》げてあった。彼はその鏡の前に立って、台の上を注意ぶかく観察した。果《は》てには台の上に、指一本たてて、スーッと引いてみた。すると台の上に、黒い筋がついた。その指を鼻の先にソッともっていって、彼はクンクンと鼻を犬のように鳴らした。 「フーン。これはフランス製の白粉《おしろい》の匂いだ。すると、この家の中には、若い女がいたことになる。しかも余り前のことではない」  彼はそこで、なおも奥の方の扉を開いて、中に入った。しばらくすると、彼の姿が再び現われた。その顔の上には微笑が浮んでいた。 「いよいよ若い女がいたことになる。きょうは十二月一日だ。すると十一月二十九日ぐらいと見ていいなア。主人公が留守にした日の前後だ。これは面白い」  廊下を出ると、そこに階段があった。それを上ろうとすると、一人の警官が横合から現われ、彼の後について、その階段をのぼってゆくのであった。 (先生、僕を監視するつもりかしら?)  階段を上ると、そこにまた廊下があった。二階はたいへん薄暗い。いつもは電灯がついていたに違いないのだが、スイッチが手近に見あたらない。  右のとっつきに、扉が半びらきになった部屋があった。それを押して入ると、スイッチがすぐ目に映った。ピーンと上にあげてみると、パッと明りがついて、室内の様子がハッキリした。ここはどうやら食堂|兼《けん》喫煙室らしく、それと思わせるような什器《じゅうき》や家具が並んでいた。なんにせよ、どうも豪勢なものである。——若い警官は、相変らず彼の後について、室内へ入ってきた。 (いよいよ監視するつもりと分った!)  彼はちょっと不愉快な気持に襲われた。だが次の瞬間、帆村探偵は不愉快もなにも忘れてしまうような物を発見した。それは安楽椅子《あんらくいす》の上に放りだされてあった紙装《かみそう》の小函《こばこ》だった。 「おおこれはどうだ。赤バラ印の弾薬函《だんやくばこ》だッ。これを使う銃は、僕の探していたアメリカのギャングが好んで使う軽機関銃じゃないか。これは物騒《ぶっそう》だぞオ——」と帆村は身ぶるいして、戸口の方をふりかえった。警官は怪訝《けげん》な顔をして、傍《そば》によってきた。このとき廊下を距《へだ》てた向いの暗い室の扉が、音もなく細目に開いて、その中から一挺《いっちょう》の太い銃口《じゅうこう》がヌッと顔を出した。 「呀《あ》ッ、あぶないッ!」と叫んだが、既に遅かった。ダダダーン、ヒューッと、発射された銃弾は帆村たちのいる室内に撃ちこまれた。 「うわーッ、ウーム」  苦しい呻《うめ》き声とともに、監視の警官が、ドサリと床上《ゆかうえ》に人形のように転がった。 「ウウン、やられたッ」  と、こんどは帆村が絶叫《ぜっきょう》した。素早く安楽椅子のかげに身をかわした彼だったが、途端《とたん》に一弾飛びきたって左肩に錐《きり》を突きこんだ疼痛《とうつう》を感じた。彼は床の上に自分の身体が崩れてゆくのを意識した。そして階下から湧き起る警官隊の大声と階段を荒々しく駈けあがってくる靴音とを、夢心地に聞いた。    空虚《くうきょ》のベッド  青年探偵の帆村荘六は恐ろしい夢からハッと覚めた。  気がついて四囲《あたり》を見まわすと、自分は白い清浄《せいじょう》な夜具《やぐ》のなかにうずまって、ベッドの上に寝ていた。 (呀《あ》ッ、そうだ。僕は肩先を機関銃で撃たれて、この病院に担ぎこまれたんだったな)  彼は大阪住吉区岸姫町の鴨下ドクトルの館で、不意に何者かのために、こんな目にあわされ、そして意気地なくもこんなことになって、附近の病院に担ぎこまれたのだった。  電灯が室内をうすぼんやり照らしていた。もう夜らしいが、何時だろうかと、腕時計を見ようとしたが、とたんに彼は、飛びあがるような疼痛を肩に感じた。 「呀ッ、痛ッ」  その叫びに応えるように人の気配がした。手紙でも書くのに夢中になっていたらしい若い看護婦が、愕いて彼の枕頭《まくらもと》に馳《は》せよった。 「お目覚《めざ》めですの。お痛みですか」  彼は軽く肯《うなず》いて、看護婦に時刻を訊いた。 「——そうですね。いま夜の九時ですわ」  と、東京弁で彼女は応えた。 「どうでしょう、僕の傷の具合は——」 「たいして御心配も要らないと、先生が仰有《おっしゃ》っていましたわ。でも暫く我慢して、安静にしていらっしゃるようにとのことですわ」 「暫くというと——」 「一週間ほどでございましょう」 「え、一週間? 一週間もこんなところに寝ていたんじゃ、脳味噌に黴《かび》が生えちまう」と憂鬱《ゆううつ》そうに呟いたが、間もなくニヤリと笑みを浮べると、「看護婦さん、すまないが大急ぎで、電報を一つ打ってきて下さい」  痛そうに帆村は唸《うな》りながら、東京の事務所宛に、簡単な電報を発するよう頼んだ。  看護婦が頼信紙《らいしんし》を手にして廊下を歩いていると、立派な紳士を案内してくる受付の同僚に会った。 「あら。君岡さん、丁度いいわ。あなたのとこの患者さんへ、この方が御面会よ」  上から下まで、黒ずくめの洋服に、ワイシャツと硬いカラーとだけが真白であるという四十がらみの顔色の青白い髭《ひげ》のある紳士が、ジロリと眼で挨拶した。  そこで看護婦の君岡は、電報の用事を受付の看護婦に頼み、自分はその黒ずくめの紳士を伴って、再び室の方にひっかえした。 「さあ、こっちでございますわ」  といって、病室の扉を開いたが、そのとき二人はベッドの上が乱雑になって居り、寝ているはずの帆村荘六の姿が見えないのを発見して愕いた。 「オヤ、帆村さんはどうなすったのでしょう。ウンウン唸っていらっして、起きあがれそうもなかったのに……」 「ウン、これは変だな」  黒ずくめの紳士は、室内に飛びこんできた。 「もし看護婦さん、この窓は、さっきから開いていたのかね?」 「ええ、なんでございますって。窓、ああこの窓ですか。さあ——変でございますわネ。たしかに閉まっていた筈なんですが」  ベッドの頭の方にある中庭に面した窓が、上に押しあげられていたのである。誰がこの窓を開けたのだろう。そして誰が患者の身体を攫《さら》っていったのだろう。  紳士は窓ぎわへ急いで近づくと、首を出して外を見た。地上までは一丈ほどもあり、真暗な植込みが、窓から洩れる淡い光にボンヤリ照らし出されていた。しかし地上に帆村の姿を見出すことはできなかった。 「どうも困ったネ」 「あたし、どうしましょう。婦長さんに叱られ、それから院長さんに叱られ、そして馘になりますわ」  看護婦は、蒼い顔をして崩れるように、椅子の上に身体を抛《な》げかけた。  そのときであった。開いた窓枠に、横合から裸の細長い脚が一本ニューッと現われた。 「アラッ、——」  と看護婦は椅子から飛びあがった。  つづいてまた一本の脚が、すこしブルブル慄《ふる》えながら現われた。それから黄八丈《きはちじょう》まがいの丹前《たんぜん》が——。 「どうせそんなことだろうと思った。おい帆村君、相変らず、無茶をするねえ」  と、紳士は呆《あき》れながらも、まあ安心したという調子でいった。  そのうちに、窓の外から帆村の全身が現われて、ヨロヨロと室内へ滑りおちてきた。 「まあ、帆村さん、貴郎《あなた》ってかたは……」  と、看護婦が泪《なみだ》を払いつつ、泣き笑いの態で帆村の身体を抱き起した。 「いや大したことはない」と帆村は青い顔に苦笑を浮べていった。「ナニ脳髄に黴《かび》が生えてはたまらんと思ったからネ。ちょっと外へ出て、冷していたんだよ。しかしこの病院の外壁《がいへき》と来たら、手懸《てがか》りになるところがなくて、下りるのに非常に不便にできている。——やあ、これは村松検事どの。貴方がもっと早く来て下されば、なにもこんな瀕死《ひんし》のサーカスをごらんに入れないですんだのですよ」  看護婦の君岡に抱《かか》えられ再びベッドの上に移されながら、傷つける帆村は息切れの入った減らず口を叩いていた。    焼屍体《しょうしたい》の素性《すじょう》 「機関銃に撃たれた警官はどうしました」  帆村はベッドの中に、病人らしく神妙に横たわって、側の椅子に腰をかけている村松検事に尋ねた。 「うん、——」検事は愛用のマドロスパイプに火を点けるのに急がしかった。「気の毒な最期だったよ。——」 「そうですか。そうでしょうネ、まともに受けちゃたまらない」  生命びろいをした帆村は溜息《ためいき》をついた。 「それで犯人はどうしました」  検事はパイプを咥《くわ》えたまま、浮かぬ顔をして、 「——勿論《もちろん》逃げちゃったよ。なにしろこっちの連中は今まで機関銃にお近付きがなかったものだからネ。あれを喰《く》らって、志田(死んだ警官)は即死し、勇敢をもって鳴る帆村荘六はだらし[#「だらし」に傍点]なく目を廻すしサ。それが向うの思う壺で、いい脅《おど》しになった。だから追い駈けた連中も残念ながらタジタジだ。——そんな風に犯人をいい気持にしてやって、一同お見送りしたという次第だ」  検事は、いつもの帆村の毒唇《どくしん》を真似て、こう説明したものだから、帆村は苦笑いをするばかりだった。もちろんそれは、村松検事が病人の気を引立ててやろうという篤《あつ》い友情から出発していることであった。 「あの犯人は、一体何者です」 「皆目わかっていない。——君には見当がついているかネ」 「さあ、——」と帆村は天井を見上げ、「とにかくわが国の殺人事件に機関銃をぶっぱなしたという例は、極《きわ》めて稀《まれ》ですからネ。これは全然新しい事件です。ともかくも兇器をとこから手に入れたということが分れば、犯人の素性《すじょう》ももっとハッキリすると思いますがネ」 「うん、これはこっちでも考えている。両三日うちに兇器の出所は分るだろう」  看護婦の君岡が、紅茶をはこんできた。検事は、病院の中で紅茶がのめるなんて思わなかったと、恐悦《きょうえつ》の態《てい》であった。 「——それから検事さん」と帆村は紅茶を一口|啜《すす》らせてもらっていった。「あの大|暖炉《ストーブ》のなかから出てきた屍体のことは分りましたか」 「うん、大体わかった——」 「それはいい。あの焼屍体の性別や年齢はどうでした」 「ああ性別は男子さ。身長が五尺七寸ある。——というから、つまり帆村荘六が屍体になったのだと思えばいい」 「検事さんも、このごろ大分修業して、テキセツな言葉を使いますね」 「いやこれでもまだ迚《とて》も君には敵《かな》わないと思っている。——年齢は不明だ」 「歯から区別がつかなかったんですか」 「自分の歯があれば分るんだが、総入歯なんだ。総入歯の人間だから老人と決めてもよさそうだが、この頃は三十ぐらいで総入歯の人間もあるからネ。現にアメリカでは二十歳になるかならずの映画女優で、歯列びをよく見せるため総入歯にしているのが沢山ある」 「その入歯を作った歯医者を調べてみれば、焼死者の身許が分るでしょうに」 「ところが生憎《あいにく》と、入歯は暖炉のなかで焼け壊れてバラバラになっているのだ」 「頭蓋骨の縫合とか、肋軟骨化骨《ろくなんこつかこつ》の有無とか、焼け残りの皮膚の皺《しわ》などから、年齢が推定できませんか」 「左様、頭蓋骨も肋骨も焼けすぎている上に、硬いものに当ってバラバラに砕けているので、全体についてハッキリ見わけがつかないが、まあ三十歳から五十歳の間の人間であることだけは分る」 「まあ、それだけでも、何かの材料になりますね。——外に、何か屍体に特徴はないのですか」 「それはやっと一つ見つかった」 「ほう、それはどんなものですか」 「それは半焼けになった右足なんだ。その右足は骨の上に、僅かに肉の焼けこげがついているだけで、まるで骨つきの痩せた、鶏の股を炮《あぶ》り焼きにしたようなものだが、それに二つの特徴がついている」 「ほほう、——」 「一つは右足の拇指《おやゆび》がすこし短いのだ。よく見ると、それは破傷風《はしょうふう》かなんかを患って、それで指を半分ほど切断した痕《あと》だと思う」 「なるほど、それはどの位の古さの傷ですか」 「そうだネ、裁判医の鑑定によると、まず二十年は経っているということだ」 「はあ、約二十年前の古傷ですか。なるほど」と帆村は病人であることを忘れたように、ひきしまった語調で呟《つぶや》いた。 「——で、もう一つの傷は?」 「もう一つの傷が、また妙なんだ。そいつは同じ右足の甲の上にある。非常に深い傷で、足の骨に切りこんでいる。もし足の甲の上にたいへんよく切れる鉞《まさかり》を落としたとしたら、あんな傷が出来やしないかと思う。傷跡は癒着《ゆちゃく》しているが、たいへん手当がよかったと見えて、実に見事に癒っている。一旦切れた骨が接合しているところを解剖で発見しなかったら、こうも大変な傷だとは思わなかったろう」 「その第二の傷は、いつ頃できたんでしょう」 「それはずっと近頃できたものらしいんだがハッキリしない。ハッキリしないわけは、手術があまりにうまく行っているからだ。そんなに見事な手術の腕を持っているのは、一体何処の誰だろうというので、問題になっておる」  検事村松と傷つける青年探偵帆村壮六とが、事件の話に華を咲かせているその最中に、慌《あわ》ただしく受付の看護婦がとびこんできた。 「モシ、地方裁判所の村松さんと仰有《おっしゃ》るのは貴方さまですか」 「ああ、そうですよ。何ですか」 「いま住吉警察署からお電話でございます」  検事はそのまま席を立って、室外へ出ていった。  それから五分ほど経って、村松検事は帰ってきた。彼は帆村の顔を見ると、いきなり今の電話の話をした。 「いまネ、鴨下ドクトルの邸に、若い男女が訪ねてきたそうだ。ドクトルの身内のものだといっているが怪しい節《ふし》があるので、保護を加えてあるといっている。ちょっと行って見てくるからネ。いずれ又来るよ」  そういい置いて、扉の向うに消えてゆく検事の後姿を、帆村は羨《うらや》ましそうに見送っていた。    蠅男  時間は、それより一時間ほど前の九時ごろのことだった。  同じ住吉区《すみよしく》の天下茶屋《てんかぢゃや》三丁目に、ちかごろ近所の人の眼を奪っている分離派風の明るい洋館があった。  太い御影石《みかげいし》の門柱には、「玉屋」とただ二字だけ彫ったブロンズの標札が埋めこんであったが、これぞいまラジオ受信機の製造で巨万の富を作ったといわれる玉屋総一郎の住宅だった。  丁度《ちょうど》その九時ごろ、一台の大型の自動車が門内に滑りこんでいった。乗っていたのは、年のころ五十に近い相撲取のように巨大な体躯の持ち主——それこそこの邸の主人、玉屋総一郎その人だった。  車が玄関に横づけになると、彼はインバネスの襟《えり》をだらしなく開けたまま、えっと懸け声をして下りたった。 「あ、お父つぁん」  家の中からは、若い女の声がした。しかしこの声は、どうも少し慄《ふる》えているらしい。 「糸子か。すこし気を落ちつけたら、ええやないか」 「落ちつけいうたかて、これが落ちついていられますかいな。とにかく早よどないかしてやないと、うち[#「うち」に傍点]気が変になってしまいますがな」 「なにを云うとるんや。嬰児《ややこ》みたよに、そないにギャアつきなや」  総一郎はドンドン奥に入っていった。そして二階の自分の書斎の扉を鍵でガチャリと開けて、中へ入っていった。、そこは十五坪ほどある洋風の広間であり、この主人の好みらしい頗《すこぶ》る金の懸った、それでいて一向|垢《あか》ぬけのしない家具調度で飾りたて、床には剥製《はくせい》の虎の皮が三枚も敷いてあり、長椅子にも、熊だの豹だのの皮が、まるで毛皮屋に行ったように並べてあった。  玉屋総一郎は、大きな机の前にある別製の廻転椅子の上にドッカと腰を下ろした。そして彼は子供のように、その廻転椅子をギイギイいわせて、左右に身体をゆすぶった。それは彼の癖《くせ》だったのである。 「さあ、その——その手紙、ここへ持っといで」  彼は呶鳴るようにいうと、娘の糸子は細い袂《たもと》の中から一通の黄色い封筒を取りだして、父親の前にさしだした。 「なんや、こんなもんか。——」  総一郎は、封の切ってある封筒から、折り畳んだ新聞紙をひっぱり出し、それを拡げた。それは新聞紙を半分に切ったものだった。 「なんや、こんなもの。屑新聞やないか」  彼は新聞をザッと見て、娘の方につきだした。 「新聞は分ってるけど、只の新聞と違うといいましたやろ。よう御覧。赤鉛筆で丸を入れてある文字を拾うてお読みやす」 「なに、この赤鉛筆で丸をつけたある字を拾い読みするのんか」  総一郎は娘にいわれたとおり、上の方から順序を追って、下の方へだんだんと読んでいった。初めは馬鹿にしたような顔をしていたが、読んでいくにつれてだんだん六ヶ敷《むずかし》い顔になって、顔がカーッと赤くなったと思うと、そのうちに反対にサッと顔面から血が引いて蒼くなっていった。 「そら、どうや。お父つぁんかて、やっぱり愕いてでっしゃろ」 「うむ、こら脅迫状や。二十四時間以ないニ、ナんじの生命《いのち》ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。蠅男《はえおとこ》。——へえ、蠅男?」 「蠅男いうたら、お父つぁん、一体誰のことをいうとりまんの」 「そ、そんなこと、俺が知っとるもんか。全然知らんわ」 「お父つぁん。その新聞の中に、蠅の死骸が一匹入っとるの見やはった?」 「うえッ、蠅の死骸——そ、そんなもの見やへんがナ」 「そんなら封筒の中を見てちょうだい。はじめはなア、その『蠅男』とサインの下に、その蠅の死骸が貼りつけてあったんやしイ」  総一郎は封筒を逆《さか》さにふってみた。すると娘の云ったとおり、机の上にポトンと蠅の死骸が一匹、落ちてきた。それはぺちゃんこになった乾枯《ひから》びた家蠅の死骸だった。そして不思議なことに、翅も六本の足も※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》りとられ、そればかりか下腹部が鋭利な刃物でグサリと斜めに切り取られている変な蠅の死骸だった。よくよく見れば、蠅の死骸と分るような、変った蠅の木乃伊《ミイラ》めいたものであった。  この奇怪な蠅の死骸は、果して何を語るのであろうか。    籠城《ろうじょう》準備  ——二十四時間以ないニ、ナんじの生命ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。——  それだけが、活字の上に赤鉛筆で丸が入れてある。  ——蠅男——  この二字だけは、不器用なゴム印の文字であって、インキは赤とも黒とも見えぬ妙な色で捺《お》してあった。  更に、奇怪な翅や脚を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》りとり、下腹部を半分に切ってある蠅の木乃伊《ミイラ》。——  全く妙な通信文であるが、とにかく脅迫状に違いない。 「お父つぁん。きっと心当りがおますのやろ。隠さんと、うちに聞かせて——」 「阿呆いうな。蠅男——なんて一向知らへんし、第一、お父さんはナ、人様から恨みを受けるようなことはちょっともしたことないわ。ことに殺されるような、そんな仰山な恨みを、誰からも買うてえへんわ」 「本当やな。——本当ならええけれど」 「本当は本当やが、とにかくこれは脅迫状やから、警察へ届けとこう」 「ああ、それがよろしまんな。うち[#「うち」に傍点]電話をかけまひょか」 「電話より、誰かに警察へ持たせてやろう。会社へ電話かけて、庶務の田辺に山ノ井に小松を、すぐ家へこい云うてんか」  娘の糸子が電話をかけに行っている間に、邸内《ていない》の男たちが呼び集められた。玉屋総一郎は、ともかくも蠅男の襲撃を避けるため、自分の居間に引籠《ひきこも》る決心を定めた。それだからまず外部から蠅男の侵入してくるのを防ぐために、四つの硝子窓を内側から厳重に羽根蒲団とトタン板とでサンドウィッチのように重ねたもので蓋をし、釘づけにした。それでもまだ心配になると見え、窓のところへ、大きな書棚や戸棚をピタリと据えた。 「どうです、旦那はん。これでよろしまっしゃろか」 「うん、まあその辺やな」 「あとは、明《あ》いとるところ云うたら、天井にある空気|孔《あな》だすが、あれはどないしまひょうか」 「あああの空気孔か」と、総一郎は白い天井の隅に、一升|桝《ます》ぐらいの四角な穴が明いている空気抜きを見上げた。そこには天井の方から、重い鋳物《いもの》の格子蓋《こうしぶた》が嵌《は》めてあった。「さあ、まさかあれから大の男が入ってこられへんと思うが、——」 「さようですナ、あの格子の隙から入ってくるものやったら、まあ鼠か蚊か——それから蠅ぐらいなものだっしゃろナ」 「なに、蠅が入ってくる。ブルブルブル。蠅は鬼門《きもん》や。なんでもええ、あの空気孔に下から蓋《ふた》をはめてくれ」 「下から蓋をはめますんで……」 「出来んちゅうのか」 「いえ、まだ出来んいうとりまへん。いま考えます。ええ、こうっと、——」  下僕《しもべ》たちが脳味噌を絞った挙句《あげく》、その四角な空気孔を、下から厚い紙で三重に目張りをしてしまった。 「さあ、これでもう大丈夫です。こうして置いたら蠅や蚊どころか、空気やって通ることが出来しまへん」  総一郎は、それでも不安そうに天井を見上げた。  そのうちに、会社からは田辺課長をはじめ山ノ井、小松などという選《え》りすぐりの用心棒が駈けつけた。総一郎はすこし生色をとりかえした。  警察への使者には、田辺課長が立った。  彼は新聞紙利用の脅迫状を、蠅の木乃伊《ミイラ》とともに提出し、主人の懇願《こんがん》の筋《すじ》をくりかえして伝えて、保護方《ほごかた》を頼んだ。  署長の正木真之進《まさきしんのしん》は、そのとき丁度、鴨下ドクトル邸へ出かけていたので、留守居の警部補が電話で署長の指揮を仰いだ結果、悪戯《いたずら》にしても、とにかく物騒だというので、二名の警官が派遣されることになった。  すると田辺はペコンと頭を下げ、 「モシ、費用の方は、玉屋の方でなんぼでも出して差支《さしつか》えおまへんのだすが、警官の方をもう三人ほど増しておもらい出来まへんやろか」  というと、警部補はカッと目を剥き、 「阿呆かいな。お上《かみ》を何と思うてるねン」  と、一発どやしつけた。  脅迫状は、一名の刑事が持って、これを鴨下ドクトルの留守宅に屯《たむろ》している署長の許へとどけることになった。    東京からの客  そのころ鴨下ドクトルの留守宅では、屯《たむろ》していた警官隊が、不意に降って湧いたように玄関から訪れた若き男女を上にあげて、保護とは名ばかりの、辛辣《しんらつ》なる不審訊問《ふしんじんもん》を開始していた。 「お前は鴨下ドクトルの娘やいうが、名はなんというのか」 「カオルと申します」  洋装の女は、年齢《とし》のころ、二十二、三であろうか。断髪をして、ドレスの上には、贅沢な貂《てん》の毛皮のコートを着ていた。すこぶる歯切れのいい東京弁だった。 「それから連れの男。お前は何者や」 「僕は上原山治《うえはらやまじ》といいます」 「上原山治か。そしてこの女との関係はどういう具合になっとるねん」 「フィアンセです」 「ええッ、フィなんとやらいったな。それァ何のこっちゃ」 「フィアンセ——これはフランス語ですが、つまり婚約者です」 「婚約者やいうのんか。なんや、つまり情夫《いろおとこ》のことやな」 「まあ、失礼な。——」と、女は蒼くなって叫んだ。 「まあ、そう怒らんかて、ええやないか。のう娘さん」 「警官だといっても、あまりに失礼だわ。それよか早く父に会わせて下さい。一体何事です。父のうちを、こんなに警官で固めて、なにかあったんですか。それなら早く云って下さい」  署長は金ぶち眼鏡ごしに、ニヤニヤしながらカオルの様子を眺めていた。部下の一人が近づいてソッと署長に耳うちをしていった。村松検事が間もなく到着するという電話があったことを返事したのであった。 「——娘さん。鴨下ドクトルから、二、三日うちに当地へ来いという手紙が来たという話やが、それは何日の日附《ひづけ》やったか、覚えているか」 「覚えていますとも。それは十一月二十九日の日附です」 「へえ、二十九日か」署長は首をかしげ「そらおかしい。ドクトルは三十日に、当分旅行をするという札を玄関にかけて、この邸を留守にしたんや。旅行の前日の手紙で、二、三日うちに大阪へ来いといって置いて、その翌日に旅行に出るちゅうのは、怪《け》ったいなことやないか。そんな手紙貰うたなどと、お前はさっきから嘘をついているのやろう」 「まあひどい方。わたしが嘘を云ったなどと——」 「そんなら、なんで手紙を持って来なんだんや。この邸へ入りこもうと思うて、警官に見つかり、ドクトルの娘でございますなどと嘘をついて本官等をたぶらかそうと思うたのやろが、どうや、図星《すぼし》やろ、恐れいったか。——」  女は身を慄《ふる》わせて、署長に打ってかかろうとした。青年上原は慌《あわ》ててそれを止め、 「——警官たちも、取調べるのが役目なんだろうが、もっと素直に物を云ったらどうです」 「なにをッ——」  そういっているところに、村松検事の到着が表から知らされた。  正木署長は席を立って、検事を玄関に迎えに出た。一伍一什《いちぶしじゅう》を報告したあとで、 「——どうも怪しい女ですなア。あの変り者の鴨下ドクトルに娘があるというのも、ちと妙な話ですし、それに娘のところへ二、三日うちに出てこい云うて、二十九日附で手紙を出しておきながら、翌三十日から旅行するちゅうて出かけ、そして今日になってもドクトルは帰ってきよらしまへん。ドクトルが娘に手紙出したちゅうのは、ありゃ嘘ですな」  と、自信あり気《げ》な口調で、検事に説明をした。検事はそうかそうかと肯《うなず》いた。  二階に設けた仮調室に現われた検事は、カオルと名のる女をさしまねき、 「貴女は鴨下ドクトルの娘さんだそうだが、たびたびこの家へ来るのかネ」  と尋ねた。  カオルは、新しく現われた調べ手に、やや顔を硬ばらせながら、 「いいえ、物心ついて、今夜が初めてなんですのよ」 「ふうむ。それは又どういうわけです」 「父はあたくしの幼いときに、東京へ預けたのです。はじめは音信も不通でしたが、この二、三年来、手紙を呉れるようになり、そしてこんどはいよいよ会いたいから大阪へ来るようにと申してまいりました。父はどうしたのでしょう。あたくし気がかりでなりませんわ」 「いや尤《もっと》もです。実はネ——」と検事はカオルの顔を注意深く見つめ「実は——愕《おどろ》いてはいけません——お父さんは三十日に旅行をされ、未《いま》だに帰って来ないのです。そしておまけに、この家のうちに何者とも知れぬ焼屍体《しょうしたい》があるのです」 「まあ、父が留守中に、そんなことが出来ていたんですか。ああそれで解りましたわ。警官の方が集っていらっしゃるのが……」 「貴女はお父さんがこの家に帰ってくると思いますか」 「ええ勿論、そう思いますわ。——なぜそんなことをお聞きになるの」 「いや、私はそうは思わない。お父さんはもう帰って来ないでしょうネ」 「あら、どうしてそんな——」 「だって解るでしょう。お父さんには、貴女との固い約束を破って旅に出るような特殊事情があったのです。そして留守の屋内の暖炉《ストーブ》の中に一個の焼屍体《しょうしたい》が残っていた」  村松検事はそう云って、女の顔を凝視《ぎょうし》した。    二つの殺人|宣告書《せんこくしょ》 「あッ」とカオルは愕きの声をあげた。「するともしや、父が殺人をして逃亡したとでも仰有《おっしゃ》るのですか」 「まだそうは云いきっていません。——一体お父さんは、この家でどんな仕事をしていたか御存じですか」 「わたくしもよくは存じません。ただ手紙のなかには、(自分の研究もやっと一段落つきそうだ)という簡単な文句がありました」 「研究というと、どういう風な研究ですか」 「さあ、それは存じませんわ」 「この家を調べてみると、医書だの、手術の道具などが多いのですよ」 「ああそれで皆さんは父のことをドクトルと仰有るのですね」  女はすこし誇らしげに、わずかに笑った。  そのとき正木署長が、検事の傍へすりよった。 「ええ、……緊急の事件で、ちょっとお耳に入れて置きたいことがありますんですが、いま先方から電話がありましたんで……」 「なんだい、それは——」  廊下へ出ると署長は低声《こごえ》で、富豪玉屋総一郎氏が今夜「蠅男」に生命を狙われていることを報告し、只今それについて玉屋から、どうも警察の護衛が親切でないから、司法大臣に上申するといってきた顛末《てんまつ》を伝えた。  村松検事は署長に、その脅迫状を持っているなら見せるように云った。  署長は、お安い御用といいながら、ポケットを探ったが、どうしたものか先刻預って確かにポケットに入れたはずの封筒が、何処へ落としたか見当らないのであった。 「どうしたんやろなア、確かにポケットに入れとったのじゃが——ひょっとすると階下《した》の大広間へ忘れてきたのかしらん。検事さん、ちょっとみてきます」  署長があたふたと階下《した》へ下りていく後を、村松検事は追いかけるようにして、大広間の方へついていった。焼屍体のあった大広間は、監視の警官が一人ついたまま、気味のわるいほどガランとしていた。  警官の挙手の礼をうけて、室内に入った署長は、そのとき室内に、異様の風体の人間が、火の消えた暖炉《ストーブ》の傍にすりよって、後向きでなにかしているのを発見して、呀《あ》ッと愕いた。全く異様な風体の人間だった。和服を着て素足の男なんだが、上には警官のオーバーを羽織り、頸のところには手拭を捲きつけているのだった。頭髪は蓬《よもぎ》のようにぼうぼうだ。 「コラッ誰やッ」署長は背後から飛びつきざま、その男の肩をギュッと掴んだ。 「うわッ、アイテテテ……」  異様な風体の男は、顔をしかめて、三尺も上に飛びあがったように思われた。 「何者や、貴様は——」  と、獣のように大きな悲鳴をあげた怪人に、却《かえ》って愕かされた署長は、興奮して居丈高《いたけだか》に呶鳴った。 「いや正木署長、その男なら分っているよ」いつの間に入ってきたか、村松検事がおかしそうに署長を制した。「それは私の知合いで帆村《ほむら》という探偵だ」 「ああ帆村さん。この怪《け》ったいな人物が——」 「うむ怪しむのも無理はない。彼は病院から脱走するのが得意な男でネ」  帆村は肩が痛むので左腕を釣っていた。大きな痛みがやっと鎮まるのを待って、怺《こら》えかねたように口を利いた。 「——まあ怒るのは後にして頂いて、これをごらんなさい、重大な発見だ」  そういってさし伸べた彼の右手には、同じ色と形とを持った二枚の黄色い封筒があった。 「あッ、これは玉屋氏に出した蠅男の脅迫状や。あんた、どこでそれを——」 「まあ待ってください。こっちが玉屋氏宛のもので、そこの絨毯《じゅうたん》の上で拾った。もう一通こっちの黄色い封筒は、この暖炉の上の、マントルピースの上にあった。その天馬の飾りがついている大きな置時計の下に隠してあったのです」 「ほう、それはお手柄だ」 「もっと愕くことがある。封筒の中には、ほらこのとおり同じように新聞紙の脅迫状が入っている」といって中から新聞紙を出してひろげ、「同じように赤鉛筆の丸のついた文字を辿《たど》って読んでみると、——きさまが血まつりだ。乃公《おれ》は思ったことをするのだ。蠅男——どうです。玉屋家の脅迫状と全く同じ者が出したのです」 「フーム、蠅男? 何だい、その蠅男てえのは」 「さあ誰のことだか分りませんが——ホラこのとおり、蠅の死骸が貼りつけてあるのですよ」  署長が帆村の手の掌のなかを覗《のぞ》きこむと、なるほど蠅の死骸だった。やはり翅や脚を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《も》がれ、そして下腹部は斜めにちょん切られていた。全く同じ、恐怖の印だ。  ああ蠅男! 今夜玉屋総一郎に死の宣告を与えた蠅男は、それより数日前に、ドクトル鴨下の屋敷に忍びこんでいたのだ。あの半焼屍体は、蠅男の仕業ではなかろうか。いやそれに違いない。  では蠅男は、玉屋総一郎を間違いなく襲撃するつもりに違いない。悪戯《いたずら》の脅迫ではなかったのだ。 「蠅男」とは何者であろう?    疑問の屍体  その奇怪なる蠅男の署名《サイン》入りの脅迫状が、こうして二通も揃ってみると、これはもはや冗談ごとではなかった。  鴨下ドクトル邸の広間に集った捜査陣の面々も、さすがに息づまるような緊張を感じないではいられなかった。  中でも、責任のある住吉警察署の正木署長は佩剣《はいけん》を握る手もガタガタと慄《ふる》え、まるで熱病患者のように興奮に青ざめていた。 「もし、検事さん。本官《わたし》はこれからすぐに玉屋総一郎の邸に行ってみますわ。そやないと、あの玉屋の大将は、ほんまに蠅男に殺されてしまいますがな。手おくれになったら、これは後から言訳がたちまへんさかいな」  署長は、ドクトル邸の燃える白骨事件で、黒星一点を頂戴したのに、この上みすみすまたたどん[#「たどん」に傍点]を頂戴したのでは、折角これまで順調にいった出世を躓《つまず》かせることになるし、住吉警察署はなにをしとるのやと非難されるだろう辛さが、もう目に見えていた。彼は全力を挙げて、この正体の知れぬ殺人魔と闘う決心をしたのであった。しかし事実、彼はいくぶん焦りすぎているようであった。 「ああ、そうかね」村松検事はそういってジロリと眼玉を動かした。「じゃ、そうし給え。——」 「じゃあ、そうします。——オイ、二、三人、一緒に行くのやぜ」  村松検事は、正木署長たちがドヤドヤと出てゆく後姿を見送りながら、帆村探偵の方に声をかけた。 「オイ君。君は、ああいうチャンバラを見物にゆく趣味はないのかネ」と、正木署長の一行についてゆかないのかを暗《あん》に尋ねた。  帆村は、寝衣《ねまき》の上に警官のオーバーという例の異様な風体で、さっきから二枚の脅迫文をしきりと見較べていた。 「チャンバラはぜひ見たいと思うのですが、僕は頭脳《あたま》が悪いので、そういうときにまず映画台本《シナリオ》をよく読んでおくことにしているんでしてネ」 「ほう、君の手に持っているのは、映画台本なのかネ」検事はパイプを口に咥《くわ》えたまま、帆村の方に近よった。 「ええ、こいつは、暗号で書いてある映画台本ですよ」と帆村は二枚の脅迫文を指し、「どうです。第二の脅迫状には、宛名が玉屋総一郎へと書いてあって、第一の脅迫状には宛名無しというのは、これはどういう訳だと思いますか」  検事はパイプから太い煙をプカプカとふかし、 「——それは極《きわ》めて明瞭《めいりょう》だから、書く必要がなかったんだろう」 「極めて明瞭とは?」 「それを説明するのは、ここではちょっと困るが——」と、室の隅に立たされている鴨下ドクトルの令嬢カオルと情人上原山治の方をチラリと見てから、帆村の耳許にソッと口を寄せ、「——いいかネ。この邸にはドクトルが一人で暮しているのに、宛名は書かんでも、誰に宛てたか分るじゃないか」 「ほう、すると貴下《あなた》は——」といって帆村は村松検事の顔を見上げながら、「——この脅迫状がドクトルに与えられたもので、そしてアノ——ドクトルが殺されたとお考えなんですネ」 「なんだ、君はそれくらいのことを知らなかったのか。あの燃える白骨はドクトルの身体だったぐらい、すぐに分っているよ」 「では、あれはどうします。三十日から旅行するぞというドクトルの掲示は?」  当分旅行ニツキ訪問ヲ謝絶ス。十一月三十日、鴨下——という掲示が奇人館の表戸にかけてありながら、家の中でドクトルの屍体がプスプス燃えているというのは、どうも変なことではないか。ドクトルが若し旅行を早くうち切って家に帰ったところ、邸内に忍びこんでいた蠅男のために殺されたのであったとしたら、家に入る前に、まず旅行中の掲示を外すのが当り前だ。ところがあのとおり掲示はチャンとしていたのであるから、それから考えるとドクトルが殺されたのだと考えるのは変ではないか。  このとき村松検事はパイプを咥《くわ》えたまま、ニヤリニヤリと人の悪そうな笑いをうかべ、 「ウフ、名探偵帆村荘六さえ、そう思っていてくれると知ったら、蠅男は後から灘《なだ》の生《き》一本かなんかを贈ってくるだろうよ」 「灘の生一本? 僕は甘党なんですがねえ」 「ホイそうだったネ。それじゃ話にもならない。——いいかね、旅行中の看板を出したのは、訪問客を邸内に入れない計略なのだ。邸内に入られて御覧。そこにドクトルの屍体があって、火炙《ひあぶ》りになろうとしていらあネ。それでは犯人のために都合が悪かろうじゃないか。アメリカでは、よくこんな手を用いる犯罪者がある」そんなことを知らなかったのか、とにかく帆村は苦笑をした。「じゃ、ドクトルはもうこの世に姿を現わさないと仰有るのですね」 「それは現わすことがあるかも知れない。君、幽霊というやつはネ、今でも——」  帆村は愕いて、もうよく分りましたと云わんばかりに人を喰った検事の方へ両手を拡げて降参降参をした。 「じゃ検事さん。ドクトルを殺したのは誰です」 「きまっているじゃないか。蠅男が『殺すぞ』と説明書を置いていった」 「じゃあ、あの機関銃を射った奴は何者です」 「うん、どうも彼奴《あいつ》の素性《すじょう》がよく解せないんで、憂鬱《ゆううつ》なんだ。彼奴が蠅男であってくれれば、ことは簡単にきまるんだが」 「さすがの検事さんも、悲鳴をあげましたね。あの機関銃の射手と蠅男とは別ものですよ。蠅男が機関銃を持っていれば、パラパラと相手の胸もとを蜂の巣のようにして抛《ほう》って逃げます。なにも痴情の果《はて》ではあるまいし、屍体を素裸にして、ストーブの中に逆さ釣りにして燃やすなんて手数のかかることをするものですか」 「オヤ、君は、あの犯人を痴情の果だというのかい。するとドクトルの情婦かなんかが殺ったと云うんだネ。そうなると、話は俄然《がぜん》おもしろいが、まさか君も、流行のお定宗《さだしゅう》でもあるまいネ」  帆村はそれを聞くと、胸をちょっと張っていささか得意な顔つきで、 「だが検事さん。あのドクトル邸は、ドクトル一人しかいなかったと仰有っていますが、事件前後に、若い女があの邸内にいたことを御存じですか」 「ナニ若い女が居た——若い女が居たというのかネ。それは君、本当か。——」  村松検事は、冗談でない顔付になって、帆村の顔を穴の明くほど見つめた。    探偵眼  そこで帆村は、屍体発見当日、手洗所の鏡の前に、フランス製の白粉《おしろい》が滾《こぼ》れていたことなどを検事のために話して聞かせた。 「そうかい、そういう若い女が、この陰鬱《いんうつ》な邸内にいたとは愕いたネ」  と、村松検事は、首をうなだれてやや考えていたが、やがて首をムックリ起すと、可笑《おか》しそうにクスクス笑いだした。 「なにがそんなに可笑しいのです」 「だって君、脅迫状の主は、蠅男だよ。いいかネ。蠅男であって、あくまで蠅女ではないんだよ。若い女がいてもいい。これがドクトル殺しの犯人だとは思えないさ」 「でも検事さん。さっき仰有《おっしゃ》ったように、この蠅男なる人物は、偽《いつわ》りの旅行中の看板をかけるような悧巧《りこう》な人間なんですよ。女だから蠅男でないとは云い切らぬ方がよくはありませんか。それよりも、早くそのフランス製の白粉の女を探しだして、それが蠅男ではないという証明をする方が近道ですよ」 「ウム、なるほど、なるほど」  検事は、孫の話を聴く祖父のように、無邪気に首を大きく振って肯いた。  そのとき、奥の方から一人の警官が、急ぎ足で入ってきた。 「検事どのに申上げます。只今、正木署長からお電話でございます。玉屋邸から懸けて参っとります」  検事は、その声に席を立っていった。帆村は、引返そうとする警官をつかまえて、莨《たばこ》を一本所望した。警官はバットの箱ごと帆村の手に渡して、アタフタと検事の後を追っていった。  帆村は、バットを一本ぬきだして口に咥えた。そして燐寸《マッチ》を求めてあたりを見まわしたが、このとき室の隅に、立たせられている鴨下カオルと上原山治の姿に気がついた。 「おお上原さん、燐寸をお持ちじゃありませんか」  と、帆村はその方へ近づいていった。  張り番の警官の方が愕いて、ポケットから燐寸を押しだして、帆村の方へさしだしたけれど、帆村はそれに気がつかないらしく、 「いや、どうもすみません」  と、上原青年の貸して呉れた燐寸を手にとった。そしてバットに火を点けて、うまそうに煙を吸った。 「——東京は、わりあいに暖いようですね」 「——はア暖こうございましたが」  と、上原青年は眼をパチパチさせた。 「今朝早く、鴨下さんを迎えにゆかれたんですね」 「はア——そうです」 「雨のところを、大変でしたネ」 「ええッ——そうでございます」 「あの、板橋区の長崎町も、随分開けましたネ」 「あッ、御存じですか、鴨下さんの住んでいらっしゃる辺を——」 「いや、こうしてお目に懸るまで、存じませんでしたが」  若い男女は、愕きの目を見張って、互いに顔を見合わせた。 「きょうの列車は、燕《つばめ》号ですネ。だいぶん空《す》いていましたネ。お嬢さんは、よく睡れましたか」  これを聞いていたカオルは、真青になった。 「ああ、もうよして下さい。気持が悪くなりますわ。探偵なんて、なんて厭《いや》な商売でしょう。まるであたしたち、監視されていたようですわ」  帆村は、笑いかけた顔を、急に生真面目な顔に訂正しながら、 「やあ、お気にさわったらお許し下さい。もうお天気の話はよします」  といって、指先に挟《はさ》んだ莨《たばこ》をマジマジと見るのであった。  そこへ電話口へ出ていた村松検事が帰ってきた。あとに警察の保姆《ほぼ》がついている。 「おう、帆村君、正木署長の電話によると、いま玉屋総一郎の邸に、怪しき男が現われて邸内をウロウロしているそうだよ。いよいよチャンバラが始まるかもしれないということだ。これから一緒に行ってみようじゃないか」 「ほう、また怪しき男ですか。どうも怪しき男が多すぎますね」  カオルの連れの上原山治が、キラリと眼を動かした。 「多いぶんには構わない。足りないよりはいいだろう。——それからお嬢さんに上原君でしたかな。二階に落着いた部屋があるから、そこでゆっくり休んで下さい。この婦人が世話をしますから、どうぞ」  検事が頤《あご》をしゃくると、保姆は人慣れた様子で二人に挨拶し、二階へ案内する旨《むね》を申述べた。——二人は観念したものと見え、また互いの眼を見合わせたまま、保姆の後について、部屋を出ていった。 「さあ、行こう。——が、君の服装は困ったネ」と検事が顔をしかめた。 「いや、服ならあるんです。ソロソロ閑《ひま》になりましたから、一つ着かえますかな」  そういって帆村は、そこに張り番をしていた警官に会釈すると、警官は椅子の上に置いてあった風呂敷包みをとって差出した。風呂敷を解くと、宿屋に残してあった洋服がそっくり入っていた。 「呆《あき》れたものだ。早く着換えとけばいいのに——」 「そうはゆきませんよ。事件の方が大切ですからネ。洋服なんか、必ず着換える時機が来るものですよ」  そういいながら、帆村は借りていた警官のオーバーを脱ぎ、病院の白い病衣を脱ぎすてた。  警官は帆村のために、襯衣《シャツ》やズボンをとってやりながら、検事には遠慮がちに、帆村に話しかけた。 「——もし帆村はん。ちょっと勉強になりますさかい、教えていただけませんか」 「ええ、何のことです」 「そら、さっきの二人に帆村はんが云やはりましたやろ、東京は暖いとか、雨が降っていたやろとか、燕で来たやろ、娘はんの家は板橋区の何処やろとかナ。二人とも、顔が青なってしもうて、えろう吃驚《びっくり》しとりましたナ、痛快でやしたなア。あの透視術を教えとくんなはれ、勉強になりますさかい」    藍甕転覆《あいがめてんぷく》事件  帆村はそれを聞くと面映《おもは》ゆげにニッと笑い、 「あああれですか。あれは透視術でもなんでもないのですよ。聞くだけ、貴下が腹を立てるようなものだけれど——」 「ナニ帆村荘六の透視術?」と早耳の検事はその言葉を聞き咎めて、「——おい君、善良な警官を悪くしちゃ困るよ」 「いや話を聞いておくだけなら、悪かなりませんよ」と帆村は弁解して、「——もちろん種があるんです。これは有名なシャーロック・ホームズ探偵がときに用いたと同じような手なんです。——さっき青年上原君に燐寸を借りたでしょう。あの燐寸は、燕号の食堂で出している燐寸です。まだ一ぱい軸木がつまっていました。夜には大阪着ですから、ここへ二人が現われた時間が十時頃で、燕号で来たことは皆ピッタリ符合します。なんでもないことですよ」 「ははア燐寸と鉄道時間表の常識とが種だっか」と警官は大真面目に感心して、「すると東京が暖いとか、雨が降っていたというのは——」 「あれは、上原君なんかの靴を見たんです。かなりに泥にまみれていました。ご承知のように、わが大阪は上天気です。しからば、あの靴の泥は東京で附着したのに違いないでしょう。それも雨です。もし雪だったら、ああは念入りに附着しませんよ。今年は十一月からずっと寒い。東京は何度も雪が降った。それだのに昨日は雨が降ったというのですから、これは暖かったに違いないでしょう」 「はあ、そういうところから分りよったんやな、なるほど種は種やが、鋭い観察だすな。それはそれでええとして、青年の方が令嬢を朝早く迎えに行ったいうんは?」 「それは、上原君の靴だけではなく、カオルさんの靴にも同等程度の泥がついていたからです。つまり二人は同じ程度の泥濘《ぬかるみ》を歩いたことになります。それから燕号は、東京駅を午前九時に発車するのですから、朝早く迎えに行ったんでしょう」 「そうなりまっか。ちょっと腑に落ちまへんな。もし二人が駅で待合わしたんやってもよろしいやないか。そして、令嬢も上原も郊外に住んで居ったら、靴の泥も、同じように附着しよりますがな」  帆村は、ここだという風に大きく肯き、 「ところがですネ、もっと大事な観察があるのです。二人の靴についている泥が、どっちも同質なんです」 「同質の泥というと——貴下《あんた》さんは、地質にも明るいのやな」 「ナニそれほどでもないが、二人の靴の泥を後でよく見てごらんなさい、どっちも泥が乾いているのに赤土らしくならないで、非常に青味がかっていましょう。染めたように真青です。だから、どっちも同質の土です。二人は同じ場所を歩いたと考えていいでしょう」 「へえーッ、さよか。そんなに青い泥がついとりましたか、気がつきまへなんだ。それはええとして、最後に、家が板橋区のどこやらとズバリと云うてだしたのは、これはまたどういう訳だんネ。令嬢を前から知っとってだすのか」 「いえ、さっきこの家で始めて会ったばかりです。だがチャンと分るのです。あのような青いインキで染めたような泥は、板橋区の長崎町の外《ほか》にないんです。もっと愕かすつもりなら、通った通りの丁目まで云いあてられるんですよ」 「へえ、驚きましたな。しかしまた、あんな青い泥がその長崎町だけにあって、外の土地には無いというのは、ちと特殊すぎますな。長崎町にあったら、その隣り町にもありまっしゃろ。そもそも地質ちゅうもんは——」 「ああ、あなたの地質の造詣《ぞうけい》の深いのには敬意を表しますが——」 「あれ、まだ地質学について何も喋っていまへんがナ」 「いや喋らんでも僕にはよく分っています。それにこの問題は地質学の力を借りんでもいいのです。つまりちょっと待って下さい、あれは地質上、あんなに青いのではないのですからネ」 「ほほン、地質で青いのかとおもいましたのに、地質以外の性質で青いちゅうのは信じられまへんな」 「いや信じられますよ。あなたはきょう東京から来た東京タイムスの朝刊をお読みになりましたか。読まない、そうでしょう。新聞を見るとあの長崎町二丁目七番地先に今掘りかえしていてたいへん道悪のところがあります。その地先で昨夜、極東染料会社の移転でもって、アニリン染料の真青な液が一ぱい大樽《おおだる》に入っているのを積んだトラックがハンドルを道悪に取られ、呀っという間に太い電柱にぶつかって電柱は折れ、トラックは転覆《てんぷく》し、附近はたちまち停電の真暗やみになった。そしてあたり一杯に、その染料が流れだして、泥濘《ぬかるみ》が真青になったと出ています。何もしらないで、現場へ飛びだした弥次馬《やじうま》たちが、後刻自宅へ引取ってみると、誰の身体も下半分が真青に染っていて、洗っても洗っても取れないというので、会社に向け珍な損害賠償を請求しようという二重の騒ぎになったとか、面白可笑しく記事が出ているんです。カオル嬢と上原君の泥靴の青い色からして、二人が今朝そこの泥濘《ぬかるみ》を歩いたに違いないという推理を立てたのです」 「な、な、なるほど、なるほど、さよか。特殊も特殊、まるで軽業《かるわざ》のような推理だすな」 「全くそのとおりです。運よく、特殊事情をうまく捉えただけのことです。しかしこれは笑いごとじゃないのです。あなたがたは官権というもので捜査なさるからたいへん楽ですが、われわれ私立探偵となると、表からも乗り込めず、万事小さくなって、貧弱な材料に頼って探偵をしなきゃならない辛さがあるんです。そこであなたがたよりは、小さいことも気にしなきゃならんのです。目につくものなら、何なりと逃《の》がさんというのが、私立探偵の生命線なんでして——」 「もう止せ、帆村君。手品の種明かしの後でながなが演説までされちゃ、折角《せっかく》保護している玉屋総一郎氏が蠅男の餌食になってしまうよ。そうなれば、今度は、こっちの生命線の問題だて」  そういって村松検事は、時計を見ながら、帆村の肩を指で突いた。  しかし、警官は、何に感心したものか、いつまでも、「なるほどなアなるほどなア」と独《ひと》り言《ごと》をいいながら、二人の出てゆくのにも気がつかない風だった。    生きている主人  夜はいたく更けていた。  仰ぐと、寒天には一杯の星がキラキラ輝いていた。晴れ亙《わた》った暗黒の夜——  ほとんど行人の姿もない大通りを、村松検事と帆村荘六の乗った警察自動車は、弾丸のように疾駆していった。  天下茶屋《てんかぢゃや》三丁目は、スピードの上では、まるで隣家も同様であった。  玉屋邸の前で、二人は車を下りた。  扉を開けてくれたのを見ると、それは、帆村もかねて顔見知りの大川巡査部長だった。彼は直立不動の姿勢をして、 「——私がもっぱら屋外警戒の指揮に当っとります」  と、検事に報告した。 「それは御苦労。すっかり邸宅を取巻いているのかネ」 「へえ、それはもう完全やと申上げたいくらいだす。塀外《へいそと》、門内、邸宅の周囲と、都合三重に取巻いていますさかい、これこそ本当《ほんま》の蟻の匍いでる隙間もない——というやつでござります」 「たいへんな警戒ぶりだネ」 「へえ、こっちも意地だす。こんど蠅男にやられてしもたら、それこそ警察の威信地に墜つだす。完全包囲をやらんことには、良かれ悪しかれ、どっちゃにしても寝覚《ねざめ》がわるおます」  この巨大な体躯の持ち主は、頤紐《あごひも》をかけた面にマスクもつけず、彼の大きな団子鼻は寒気のために苺《いちご》のように赤かった。なににしても、たいへんな頑張り方だった。  村松と帆村は、監視隊の間を縫って警戒線を一巡した。なるほど、映画に出てくる国定忠治の捕物を思わせるような大規模のものだった。警官の吐く息が夜目にも白く見えた。  一巡後、二人は、厳重な門を開いて貰って、玄関に入った。  さすがに屋内は、鎮まりかえっていた。でも座敷に入ると、襖《ふすま》の蔭や階段の下に、警官が木像のように立っていた。そして検事の近づくのを見ると、一々鄭重な敬礼をした。 「ああ検事さん検事さん。——」  警戒総指揮官の正木署長が、向うからやって来た。彼も頤紐をかけ、足には靴下を脱いで、その代りに古|足袋《たび》を履いていた。それは捕物の際、畳の上で滑らないためらしかった。 「おお正木君か。——君、蠅男というのは何十人ぐらいで、隊をなしてくるのかネ」 「隊をなして? ——ハッハッハッ。検事さんのお口には敵いまへん。ともかくも屋内のどこからどこまで、私のとこで完全に指揮がとれるようになっとります」 「ウム、完全完全の看板|流行《ばやり》だわい」 「え、何でございます」 「いや、革の袋からも水が漏るというてネ、油断はできないよ。——主人公の居るところは何処かネ」 「ああ、それはこちらだす。どうぞ、こちらへ——」  正木署長は、検事を廊下づたいに玉屋総一郎の書斎の前に連れていった。そこの扉の前には、鬼を欺《あざむ》くような強力《ごうりき》の警官が三人も立っていた。  検事は扉《ドア》の方によって、ハンドルを握って廻してみた。 「ああ、あきまへん」と警官の一人がいった。「御主人が中に入って、自分で鍵をかけていてだんネ」 「中から鍵を——すると警官も中へは入れないのかネ」 「警官まで、蠅男の一味やないか思うとるようですなア」 「ちょっと会ってみたいが——」 「そんなら、扉を叩いてみまっさ」  警官が、なんだか合図らしい叩き様で、扉をドンドンドン、ドンドンと叩いた。そして主人の名を大声で呼んでいると、やがて扉の向うで微かながら、これに応える総一郎の喚《わめ》き声《ごえ》があった。 「——さっき断っときましたやろ。もう叩いたりせんといておくれやす。そのたんびに心臓がワクワクして、蠅男にやられるよりも前に心臓麻痺になりますがな」  主人公は、心細いことを云って、脅えきっていた。正木署長は検事に発声をうながしたが、村松はかぶりを振ってもうその用のないことを示した。で、署長が代って、 「——私は署長の正木だすがなア、なにも変ったことはあらしまへんか」  すると中からは、総一郎の元気な声で、 「ああ署長さんでっか。えろう失礼しましたな。今のところ、何も変りはあらしまへん。しかし署長さん。殺人予告の二十四時間目というと午後十二時やさかい、もうあと三十分ほどだすなア」 「そう——ちょっと待ちなはれ。ウム、今は十一時三十五分やから——ええ御主人、もうあと二十五分の辛抱だす」 「あと二十五分でも、危いさかい、すぐには警戒を解いて貰うたらあきまへんぜ。私もこの室から、朝まで出てゆかんつもりや、よろしまっしゃろな」 「承知しました。——すると朝まで、御主人はどうしてはります」 「十二時すぎたら、此処に用意してあるベッドにもぐりこんで朝方まで睡りますわ」 「さよか。そんならお大事に、なにかあったら、すぐあの信号の紐を引張るのだっせ」 「わかってます。——そんならもう扉を叩かんようにお頼み申しまっせ。蠅男が来たのか思うて、吃驚《びっくり》しますがな」といって総一郎は言葉を切ったが、また慌てて声をついで、「——それからあのウ、池谷与之助《いけたによのすけ》は帰って来ましたやろか。そこにいまへんか」 「ああ池谷はんだっか。さあ——」と署長は後をふりかえって、警官の返事を求めたあとで、「どこやら行ってしもうたそうや。うちに居らしまへんぜ」 「ああそうでっか。おおきに。——そんならこれで喋るのんはお仕舞いにしまっせ」  帆村は、さっきからしきりと両人の扉ごしの会話に耳を傾けていたが、このとき首を左右に振って、 「——喋るのはお仕舞いにしまっせ、か。これが永遠の喋り仕舞いとなるという意味かしら。ホイこれは良くない卦《け》だて」  といって、大きな唇をグッとへ[#「へ」に傍点]の字に曲げた。    天井裏の怪音? 「あれはなんだネ、池谷与之助てえのは」  と、検事が署長にたずねた。 「その池谷与之助ですがな。さっき怪しい奴が居るいうてお知らせしましたのんは。夜になって、この邸にやってきよりましたが、主人の室へズカズカ入ったり、令嬢糸子さんを隅へ引張って耳のところで囁《ささや》いたり、そうかと思うと、会社の傭人を集めてコソコソと話をしているちゅう挙動不審の男だすがな」 「フーム、何者だネ、彼は」 「主治医や云うてます。なんでも宝塚に医院を開いとる新療法の医者やいうことだす。さっき邸を出てゆっきよったが、どうも好かん面《かお》や」  と、署長は、白面《はくめん》無髯《むぜん》に、金縁眼鏡をかけているというだけの、至って特徴のない好男子の池谷与之助の顔に心の中で唾をはいていた。 「なんだ、怪しいというのは、たったそれだけのことかネ」 「いいえいな、まだまだ怪しいことがおますわ。さっきもナ、——」  と云いかけた途端であった。  突然、二階へ通ずる奥の階段をドンドンドンと荒々しく踏みならして駈け下りてくる者があった。それに続いてガラガラガラッとなにか物の壊れる音!  男女いずれとも分らぬ魂消《たまき》るような悲鳴が、その後に鋭く起った。  素破《すわ》、なにごとか、事件が起ったらしい。 「や、やられたッ。助けてえ——死んでしまうがなア——」  と、これは紛《まぎ》れもない男の声。  警官たちはハッと顔色をかえた。そして反射的に、その叫び声のする方へ駈けだした。 「こらこら、神妙にせんか。——」  騒動の階段の下から、襟がみを引捕えられて、猫のように吊しあげられたのは一人の男と女。 「どうしたどうした」 「どちらが蠅男や」 「蠅女も居るがナ」 「あまりパッとせん蠅男やな」  そんな囁きが、周囲から洩れた。  正木署長は前へ進み出で、 「コラ、お前は見たような顔やな」  と男の方にいった。 「へえ、私は怪しい者ではござりまへん。会社の庶務にいます山ノ井という者で、今日社長の命令で手伝いに参りましたわけで……」 「それでどうしたというのや。殺されるとか死んでしまうと喚きよったは——」 「いや、それがモシ、私が階段の下に居りますと上でドシドシとえらい跫音だす。ひょっと上を見る途端に、なにやら白いものがスーッと飛んできて、この眉間にあたったかと思うとバッサリ!」 「なにがバッサリや。上から飛んで来たというのは、そらそこに滅茶滅茶に壊れとる金魚鉢やないか。なにを慌てているねん。二階から転げ落ちてきたのやないか」 「ああ金魚鉢? ああさよか。——背中でピリピリするところがおますが、これは金魚が入ってピチピチ跳ねとるのやな」  署長以下、なんのことだと、気の弱い社員のズブ濡れ姿に朗らかな笑声を送った。 「——女の方は誰や。コラ、こっち向いて——」  と、署長は、鳩が豆を喰ったように眼をパチクリしている四十がらみの女に声をかけた。 「へへ、わ、わたくしはお松云いまして令嬢《いと》はんのお世話をして居りますものでございます」 「ウム、お松か。——なんでお前は金魚鉢を二階から落としたんや。人騒がせな奴じゃ」 「金魚鉢をわざと落としたわけやおまへん。走って居る拍子に、つい身体が障りましてん」 「なんでそんなに夢中で走っとったんや」 「それはアノ——蠅男が、ゴソゴソ匍《は》ってゆく音を聞きましたものやから、吃驚《びっくり》して走りだしましたので——」 「ナニ蠅男? 蠅男の匍うていっきょる音を聞いたいうのんか。ええオイ、それは本当か——」  署長は冗談だと思いながらも、ちょっと不安な顔をした。なにしろ蠅男防禦陣を敷いている真最中のことであったから。 「本当《ほんま》でっせ。たしかに蠅男に違いあらへん。ゴソゴソゴソと、重いものを引きずるような音を出して、二階の廊下の下を匍うとりました」 「二階の廊下の下を——」  と署長が天井を見上げると、周囲の警官たちも、こわごわ同じように天井を見上げながら、頸を亀の子のように縮めた。 「鼠とちがうか。蛇が天井に巣をしとるのやないか。オイお松、ハッキリ返事をせい」  署長はすこし狼狽《ろうばい》の色を現わした。 「ちがいますがな、ちがいますがな。鼠があんな大きな音をたてますかいな。——蛇? 蛇が、こんな新築《しんだち》に入ってくるものでっしゃろか。ああ気持がわるい」  署長は、しばらく無言で、ただ獣のように低く唸っていた。が、急に腕時計を出してみて、 「ウム、いま十一時五十五分だ。——」  と叫んで、周囲をグルッと見廻したが、その人垣の外に、村松検事が皮肉たっぷりの笑みを浮べて立っているのを見つけると、 「ああ、検事さん。いまのお松の話お聞きでしたか。蠅男がこの厳重な警戒線を突破して天井裏を匍《は》うというのは、本当《ほんま》のことやと思われまへんが、時刻も時刻だすよって、一応主人公の安否を聞いてみたら思いますけれど、どないなもんでっしゃろ」  検事はパイプを口から離して、静かに云った。 「聞いてみない方より、聞いてみた方がいいだろうネ。しかしこんなくだらん騒ぎに、こんなに皆が一つ処に固まってしまうのじゃあ、完全な警戒|網《もう》でございとは、ちょっと云えないと思うが、どうだ」 「おお」と署長は始めて気がついたらしく、「これ皆、一体どうしたんや。よく注意しておいたのに、こう集って来たらあかへんがな。——ああ、あの部屋に間違いはあらへんやろな」  署長は慌ててそこを飛びだし、主人公の籠城している居間の方へ駈けだした。 「ウム、よかった。——」  署長は居間の前に、警官が一人立っているのを見て、ホッと安心した。 「オイ異状はないか。ずっとお前は、ここに頑張っていたんやろな」 「はア、さっきガチャンのときに、ちょっと動きましたが、すぐ引返して来て、此処に立ち続けて居ります」  と東京弁のその警官が応えた。 「なんや、やっぱり動いたのか」 「はア、ほんの一寸《ちょっと》です。一分か二分です」 「一分でも二分でも、そらあかんがな」  といったが、他の二人はどこへ行ったか居なかった。 「さあ、ちょっと中へ合図をしてみい」  警官は心得て、ドンドンドン、ドンドンと合図どおりに扉をうった。そしてそれをくりかえした。 「——御主人! 玉屋さーん」  署長は扉に口をあてんばかりにして呶鳴った。しかし内部からは、なんの応答も聞えなかった。 「こら怪ったいなことや。もっとドンドン叩いてみてくれ」  ドンドンドンと、扉はやけにうち叩かれた。主人の名を呼ぶ署長の声はだんだん疳高《かんだか》くなり、それと共に顔色が青くなっていった。 「——丁度午後十二時や。こらどうしたんやろか」  そのとき広い廊下の向うの隅にある棕櫚《しゅろ》の鉢植の蔭からヌッと姿を現わした者があった。    不思議なる惨劇《さんげき》  死と生とを決める刻限は、既に過ぎた。  死の宣告状をうけとったこの邸の主人玉屋総一郎は、自ら引籠った書斎のなかで、一体なにをしているのであろうか。その安否を気づかう警官隊が、入口の扉を破れるように叩いて総一郎を呼んでいるのに、彼は死んだのか生きているのか、中からは何の応答《いらえ》もない。扉の前に集る人々のどの顔にも、今やアリアリと不安の色が浮んだ。  そのとき、この扉の向い、丁度|棕櫚《しゅろ》の鉢植の置かれている陰から、ヌーッと現われたる人物……それは外でもない、主人総一郎の愛娘糸子の楚々たる姿だった。ところがこの糸子の顔色はどうしたものか真青であった。 「どうしたんです、お嬢さん」  と、これを逸早《いちはや》く見つけた帆村探偵が声をかけた。この声に、彼女の体は急にフラフラとなると、その場に仆れかけた。帆村は素早くそれを抱きとめた。  扉のまえでは、村松検事と正木署長の指揮によって、今や大勢の警官が扉をうち壊すためにドーンドーンと躰を扉にうちあてている。さしもの厳重な錠前も、その力には打ちかつことも出来ないと見えて、一回ごとに扉はガタガタとなっていく。そして遂に最後の一撃で、扉は大きな音をたてて、室内に転がった。  警官隊はどッと室内に躍りこんだ。つづいて村松検事と正木署長が入っていった。 「おお、これは——」 「うむ、これはえらいこっちゃ」  一同は躍りこんだときの激しい勢いもどこへやら、云いあわせたように、その場に立ち竦《すく》んだ。なるほどそれも無理なきことであった。なんということだ。今の今まで一生懸命に呼びかけていた主人総一郎が、書斎の天井からブラ下って死んでいるのであった。  すこし詳しく云えば、和服姿の総一郎が、天井に取付けられた大きな電灯の金具のところから一本の綱《つな》によって、頸部《けいぶ》を締められてブラ下っているのであった。  他殺か、自殺か?  すると、正木署長が叫んだ。 「おお血や、血や」 「ナニ血だって? 縊死《いし》に出血は変だネ」  と村松検事は屍体を見上げた。そのとき彼は愕きの声をあげた。 「うむ、頭だ頭だ。後頭部に穴が明いていて、そこから出血しているようだ」 「なんですって」  人々は検事の指《ゆびさ》す方を見た。なるほど後頭部に傷口が見える。 「オイ誰か踏台を持ってこい」検事が叫んだ。  帆村探偵に抱かれていた糸子は、間もなく気がついた。そのとき彼女は低い声でこんなことを云った。 「——貴郎《あなた》、なんで書斎へ入ってやったン、ええ?」 「ええッ、書斎へ——何時、誰が——」  意外な問に帆村がそれを聞きかえすと、糸子は呀っと声をあげて帆村の顔を見た。そして非常に愕きの色を現わして、帆村の身体をつきのけた。 「——私《うち》、何も云えしまへん」  そういったなり糸子は沈黙してしまった。いくら帆村が尋ねても、彼女は応えようとしなかった。そこへ奥女中のお松が駈けつけてきて、帆村にかわって糸子を劬《いたわ》った。  警官たちに遅れていた帆村は、そこで始めて惨劇の演ぜられた室内に入ることができた。 「ほう、これはどうもひどい。——」  彼とてもこの場の慄然《りつぜん》たる光景に、思わず声をあげた。そのとき検事と署長とは、踏台の上に抱き合うようにして乗っていた。そしてしきりに総一郎の屍体を覗きこんでいた。 「——正木君。これを見給え、頭部の出血の個所は、なにか鋭い錐《きり》のようなものを突込んで出来たんだよ。しかも一旦突込んだ兇器を、後で抜いた形跡が見える。ちょっと珍らしい殺人法だネ」 「そうだすな、検事さん。兇器を抜いてゆくというのは実に落ついたやり方だすな、それにしても余程力の強い人間やないと、こうは抜けまへんな」 「うん、とにかくこれは尋常な殺人法ではない」  検事と署長は、踏台の上で顔を見合わせた。 「ねえ、検事さん。一体この被害者は、頸を締められたのが先だっしゃろか、それとも鋭器を突込んだ方が先だっしゃろか」 「それは正木君、もちろん鋭器による刺殺の方が先だよ。何故って、まず出血の量が多いことを見ても、これは頸部を締めない先の傷だということが分るし、それから——」  といって、検事は屍体の頸の後に乱れている血痕を指し、 「——綱の下にある血痕がこんな遠くまでついているし、しかも血痕の上に綱の当った跡がついているところを見ても、綱は後から頸部に懸けたことになる。だからこれは——」  検事はそこで云いかけた言葉を切って、ギロリと目を光らせた。 「何だす、検事さん。何かおましたか」 「うむ、正木君。さっきからどうも変なことがあるんだ。血痕の上に触った綱に二種あるんだ。つまり綱の跡にしても、これとこれとは違っている。だから二種類の綱を使ったことになるんだが、現在屍体の頸に懸っているのは一本きりだ」  そういって検事は不思議そうに室内を見廻した。  血によって印刷された綱の跡——このような一見つまらないものを見|遁《の》がさなかったのは、さすがに名検事の誉《ほまれ》高き村松氏であった。それこそ恐るべき「蠅男」の正体を語る一つの重大な鍵であったとは、後になって思いだされたことだった。    糸子の質問  室内を見廻している村松検事は、そこに帆村の姿を認めたので声をかけた。帆村はしきりに天井を見上げているところであった。 「なんです、検事さん」 「うむ帆村君、ちょっとここへ上って見てくれたまえ。ここに君が面白がるものがあるんだ」  といって、村松検事は宙に下っている総一郎の頸のあたりを指した。  帆村は身も軽々と、踏台の上にとびのった。 「ああこれですか。なるほど血の上についている綱の痕のようなものが二種類見えますネ」  と帆村は検事の説明に同意した。 「ねえ、分るだろう。こっちに見える模様の細かい方が、今屍体を吊りあげている綱の痕だ。もう一方の模様の荒いハッキリと網目の見える方の綱が室内のどこにも見当らないんだ」  帆村は検事の指す血痕をじっと見つめていたが、頓狂な声を出して、 「——これは綱の痕じゃありませんよ」 「綱の痕じゃないって? じゃ何の痕だい」 「さあハッキリは分らないが、これは綱ではなくて、何か金具の痕ですよ。ハンドルだのペンチだの、金具の手で握るところには、よくこうした網目の溝が切りこんであるじゃありませんか」 「なるほど——網目の溝が切りこんである金具か。うむ、君のいうとおりだ。じゃもう一本の綱を探さなくてもいいことになったが、その代りに金具を探さにゃならんこととなった。金具って、どんなものだろうネ。どうしてこんなに綱と一緒に、こんな場所に附いているのだろうネ」  村松検事はしきりと頭をひねった。しかし帆村はなにも応えなかった。帆村にもこの返事は直ぐには出来ないであろう。  この応答《こたえ》が、もしすぐにこの場でできたとしたら、「蠅男」の正体は案外楽に解けたであろう。  奇妙なる金具のギザギザ溝の痕!  そのとき室の入口に、なにか騒がしい諍《いさか》いが始まった。  踏台の上にいた検事はヨロヨロとした腰付で入口を見たが、ひと目で事情を悟った。 「オイ帆村君。被害者の令嬢がこの惨劇を感づいて入りたがっているようだ。君ひとつ、いい具合に扱ってくれないか。むろんここへ近付いてもかまわないが、その辺よろしくネ」  帆村は検事の頼みによって、入口のところへ出ていった。警官が半狂乱の糸子を室内に入れまいとして骨を折っている。  帆村はそれをやんわりと受取って、彼女の自制を求めた。糸子はすこし気を取直したように見えたが、こんどは帆村の胸にすがりつき、 「——たった一人の親の大事だすやないか。私《うち》は心配やよって、さっきから入口の前をひとりで見張ってたくらいや。警官隊もとんとあきまへんわ。警戒の場所を離れたりして、だらしがおまへんわ。そんなことやさかい、私のたった一人の親が殺されてしもうたんやしい。もう何云うても、こうなったら取りかえしがつかへんけれど——そないにして置いて、私がお父つぁんのところへ行こうと思うたら、行かさん云やはるのは、なんがなんでもあんまりやおまへんか」  と、ヒイヒイいって泣き叫ぶのだった。  それを聞いていると、糸子が父の死を既《すで》に察していることがよく分った。帆村は糸子に心からなる同情の言葉をかけて、気が落ついたら、自分と一緒に室内へ入ってお父さまの最期《さいご》を見られてはどうかと薦《すす》めた。誠意ある帆村の言葉が通じたのか、糸子は次第に落つきを回復していった。  それでも父の書斎に一歩踏み入れて、そこに天井からダラリと下っている父親の浅ましい最期の姿を見ると、糸子はまた新たなる愕きと歎きとに引きつけそうになった。もしも帆村が一段と声を励まして気を引立ててやらなかったら、繊弱《かよわ》いこの一人娘は本当に気が変になってしまったかもしれない。 「おおお父《とっ》つぁん。な、なんでこのような姿になってやったん」  糸子は帆村の手をふりきって、冷い父親の下半身にしっかり縋《すが》りつき、そしてまた激しく嗚咽《おえつ》をはじめたのであった。鬼神のように強い警官たちではあったけれど、この美しい令嬢が先に母を喪い今こうして優しかった父を奪われて悲歎やる方なき可憐な姿を見ては、同情の心うごき、目を外らさない者はなかった。 「おおお父つぁん。誰かに殺されてやったかしらへんけれど、きっと私が敵《かたき》を取ったげるしい。迷わんと、成仏しとくれやす。南無阿弥陀仏。——」  糸子はワナワナ慄う口唇《くちびる》をじっと噛みしめながら、胸の前に合掌した。若い警官たちは、めいめいの心の中に、この慨《なげ》き悲しむ麗人を慰めるため、一刻も早く犯人を捕えたいものだと思わぬ者はなかった。  帆村荘六とて、同じ思いであった。彼は糸子の傍に近づき、もう余り現場に居ない方がいいと思う旨伝えて、父の霊に別れを告げるよう薦めた。  糸子はふり落ちる泪の中から顔をあげ、帆村に礼などをいった。彼女の心は本当に落つきを取り戻してきたものらしい。彼女は父の屍体を、初めて見るような面持で見上げた。そして帆村の腕を抑えて、思いがけないことを問いかけた。 「もし——。父はこういう風に下っていたところを発見されたんでっしゃろか」 「もちろん、そうですよ。それがどうかしましたか」  帆村には、この糸子の言葉がさらに腑に落ちかねた。 「いや別に何でもあれしまへんけれど——よもや父は、自殺をするために自分で首をくくったのやあれしまへんやろな」 「それは検事さんの調べたところによってよく分っています。犯人は鋭い兇器をもってお父さまの後頭部に致命傷を負わせて即死させ、それから後にこのように屍体を吊り下げたということになっているんですよ。僕もそれに同感しています」 「はあ、そうでっか」と糸子は肯《うなず》き、「こんな高いところに吊るのやったら、ちょっと簡単には出来まへんやろな。犯人が、いま云やはったようなことをするのに、時間がどの位かかりまっしゃろ」 「ええ、なんですって。この犯行にどの位時間が懸るというのですか。うむ、それは頗《すこぶ》る優秀なる質問ですね。——」  帆村は腕を組んで、犯行の時間を推定するより前に、なぜ糸子が、このような突然の質問を出したかについて訝《いぶか》った。    答に出た「蠅男」 「犯行に費した時間はというと、そうですね、まず少くとも二分は懸るでしょうね。手際が悪いとなると、五分も十分も懸るでしょう」 「ああそうでっか。二分より早うはやれまへんか」  と糸子は帆村に念を押した。 「二分より早くやるには余程人数が揃っているとか、或いはまた道具が揃っていないと駄目ですね」 「ああそうでっか。——二分、ああ二分はかかりまっかなア」  糸子はなぜか二分という時間にこだわっていた。  帆村は糸子の問に応えているうちに、妙な事実に気がついた。それは犯人はどんな台を使って総一郎をこんな高いところに吊りあげたかという疑問だった。  なぜならこの部屋は天井がたいへん高く、普通の家の書斎に比べると三、四尺は高かったろう。そこから吊り下った屍体の爪先は、床から三尺ぐらいのところにあるが、それを吊り下げる綱の一番高いところは床上から二間ばかり上にあった。犯人の手はどうしてそんな高いところへ届いたのだろう。  いま検事や署長などが、屍体の傍に置いている台は、その部屋にあった二尺あまりの丸い卓子の上に、勝手に使っていた二尺の踏台を重ねあわせたものだ。犯人が総一郎を殺したときには、この踏台はこの部屋になかった。では彼はどうして十二尺あまりもあるところへ綱を通して結び目を作ったのだろう。  この踏台に代るようなものが室内にあるかと見廻したが、低い椅子の外に何にも見当らなかった。しかも今台につかっている丸卓子のほかはなんにも動かさなかったというのだから、ますます不思議である。  では犯人の人数が多くて、軽業《かるわざ》でもやるように肩車をして、総一郎を吊りあげたろうかと考えるのに、これもちと可笑《おか》しい。それはこの室の扉から出入した者は多分無かったろうと思われるし——多分というわけは、金魚鉢が二階から降ってきたときに、この扉の前を警備していた警官が、ついそちらへ見に行って、一時扉の前を守る者がいなかったことがある。但しそれは警官の自白によって、僅か一、二分の間だったという。その間だけはハッキリ分らないが、その外の時間に於ては、この扉は被害者総一郎が内側から錠を下ろしたままで、誰も出入しなかったといえる。では外にこの部屋への入口はあるかというのに、人間の通れそうなところは只の一個所もない。それは被害者総一郎が「蠅男」の忍びこんでくるのを懼《おそ》れて、入口以外の扉も窓もすっかり釘づけにして入れなくしてしまったからだ。  ただ一つ帆村は変なものを発見していた。それは天井の方から紙を貼りつけて穴をふさいであった。しかるに事件後には、その穴がポッカリと四角形に明いていたのであった。紙はなにか鋭利な刃物でもって、穴の形なりに三方を切り裂かれ、一方の縁でもってダラリと天井から下っていた。これは一体何を意味するのであろうか。  その穴は一升|桝《ます》ぐらいの四角い穴だったから、そこから普通の人間は出入することは出来ない。小さい猿なら入れぬこともなかったが、よしや猿が入ってきたとしても、猿がよく被害者総一郎の頭に鋭い兇器をつきこんだり、それから二間も上にある綱を結んで体重二十貫に近い彼を吊り下げることができるであろうか。これはいずれも全く出来ない相談である。猿が入ってきても何にもならない。  どうやら、これは入口のない部屋の殺人ということになる。しかも犯人は総一郎を高さが二尺あまりの卓子にのぼって吊り下げ、床上二間のところに綱の結び目を作ったとすれば、腕が頭の上に二尺ちかく伸びたと考えたにしても、その犯人の背丈は、二間すなわち十二尺から四尺を引いてまず八尺の身長をもっていると見なければならない。変な話であるが、勘定からはどうしてもそうなるのである。しかもこの八尺の怪物が入口から這入《はい》ってきたのでないとすると、まるで煙のようにこの部屋に忍びこんだということになる。  このとき、どうしても気になるのは、貼りつけてあった紙を切りとって、一升桝ぐらいの四角な穴を明けていったらしい犯人の思惑だった。この穴からどうしたというのだろう。もし八尺の怪人間がいたとしたら、このような小さい穴からは、彼の腕一本が通るにしても、彼の脚は腿のところで閊《つか》えてしまって、とても股のところまでは通るまい。 「——これは考えれば考えるほど、容易ならぬ事件だぞ」  と、帆村探偵は心の中で非常に大きい駭《おどろ》きを持った。——密室に煙のように出入することの出来る背丈八尺の怪物! 「蠅男」を勘定から出すと、イヤどうも何といってよいか分らぬ恐ろしい妖怪変化となる。果してこんな恐ろしい「蠅男」なるものが、文化|華《はな》と咲く一千九百三十七年に住んでいるのであろうか。  帆村は、彼が糸子の傍に佇立《ちょりつ》していることさえ忘れて、彼のみが知る恐ろしさに唯《ただ》、呆然《ぼうぜん》としていた。    宝塚の一銭活動写真  それから二日のちのことだった。帆村荘六はただひとりで、宝塚の新温泉附近を歩いていた。  空は珍らしくカラリと晴れあがり、そして暖くてまるで春のようであった。冬の最中とはいえ真青に常緑樹の繁った山々、それから磧《かわら》の白い砂、ぬくぬくとした日ざし——帆村はすっかりいい気持になって、ブラブラと橋の上を歩いていった。これが兇悪「蠅男」の跳梁《ちょうりょう》する大阪市と程遠からぬ地続きなのであろうかと、分りきったことがたいへん不思議に思われて仕方がなかった。  新温泉の桃色に塗られた高い甍《いらか》が、明るく陽に照らされている。彼は子供の時分よく、書生に連れられて、この新温泉に来たものであった。彼はそこの遊戯場にあったさまざまな珍らしいカラクリや室内遊戯に、たまらない魅力を感じたものであった。彼の父はこの温泉の経営している電鉄会社の顧問だったので、彼は一度来て味をしめると、そののちは母にねだって書生を伴に、毎日のように遊びに来たものである。しかし書生はカラクリや室内遊戯をあまり好まず、坊ちゃん、そんなに遊戯に夢中になっていると身体が疲れますよ、そうすると僕が叱られますから向うへ行って休憩しましょうと、厭《いや》がる荘六の手をとって座席の上に坐らせたものだ。  その座席は少女歌劇の舞台を前にした座席だったので、自然少女歌劇を見物しながら休息しなければならなかった。書生はここへ来ると俄然|温和《おとな》しくなって、荘六のことをあまり喧《やかま》しく云わなかった。その代り彼は、突然|団扇《うちわ》のような手で拍手をしたり、舞台の少女と一緒に唱歌を歌ったり、それからまた溜息をついたりしたものである。荘六は子供心に、書生が一向休憩していないのに憤慨《ふんがい》して、ヨオお小用《しっこ》が出たいだの、ヨオ蜜柑《みかん》を買っておくれよ、ヨオ背中がかゆいよオなどといって書生を怒らせたものである。——いま橋の上から、十何年ぶりで、新温泉の建築を見ていると、そのときの書生の心境をハッキリ見透《みとお》せるようで頬笑ましくなるのであった。彼は久し振りに新温泉のなかに入ってみる楽しさを想像しながら、橋の欄干《らんかん》から身を起して、またブラブラ歩いていった。  とうとう彼は、入場券を買って入った。もちろん昔パスを持って通った頃の年老いた番人はいなくて、顔も見知らぬ若い車掌のような感じのする番人が切符をうけとった。  中へ入った帆村は、だいぶん様子の違った廊下や部屋割にまごつきながらも、やっと覚えのある大広間《ホール》に出ることができた。朝まだ早かったせいか、入場者は多くない。  帆村は遊戯室の方に上る階段の入口を探しあてた。彼はすこし胸をワクワクさせながらその狭い階段を登っていった。  おお有った有った。思いの外なんだか狭くなったような感じであるが、見廻したところ、彼の記憶に残っている世界遊覧実体鏡、一銭活動、魔法の鏡、三世界不思議鏡、電気屋敷など、すべてそのままであった。 「うむ、アルプスの小屋に住んでいる貧乏《プーア》サンタクロス爺さんの一家は機嫌がいいかしら」  と、帆村は数多い懐しい実体鏡のなかを、あれやこれやと探して歩いた。貧乏サンタクロスの一家というのは、アルプス小屋に住んでいる山籠《やまごも》りの一家のことで、小さな小屋の中にサンタクロスに似た髯を持った老人を囲んで、男女、八人の家族が思い思いに針仕事をしたり薪を割ったり、鏡の手入れをしたり、子供は木馬に乗って遊んでいるという一家団欒の写真であって、サンタ爺さんひとりは酒のコップを持ってニコニコ笑っているのであった。  その実体鏡でみると、この狭い家の中の遠近がハッキり見え、そして多勢の身体も実体的に凹凸《おうとつ》がついていて、本当の人間がチャンとそこに見えるのであった。いつまでも見ていると、本当にアルプスへ登って、この小屋の中を覗《のぞ》きこんでいるような気がしてきて、淡い望郷病が起ってきたり、それから小屋の家族たちの眼がこっちをジロリと睨んでいるのが、急になんともいえなく恐ろしくなったりして、堪らなくなって眼鏡から眼を離して周囲を見廻す。すると一瞬間のうちに、アルプスを離れて、身はわが日本の宝塚新温泉のなかにいることを発見する——という淡《あわ》い戦慄《せんりつ》をたいへん愛した帆村荘六だった。彼は十何年ぶりで、そのアルプス小屋の一家が相変らず楽しそうに暮しているのを発見して嬉しかった。サンタ爺さんの手にあるコップには相変らず酒が尽きないようであったし、彼の長男らしい眼のギョロリとした男は、一挺の猟銃をまだ磨きあげていなかった。  帆村は子供の頃の心に帰って、それからそれへとカラクリを見て廻った。  そのうちに彼は甚《はなは》だ奇抜な一銭活動を発見した。これは「人造犬《じんぞうけん》」という表題であったが、イタリヤらしい市街をしきりに猛犬が暴れまわり、市民がこれを追いかけるという写真であった。その猛犬を追跡自動車が追うと、自動車が反《かえ》ってガタンと街路にひっくりかえる。ピストルを打てば、弾丸が撃った者の方へ跳ねかえってくる。袋小路へ大勢の市民が追いつめて、いよいよ捕えるかしらと思っていると、ああら不思議、猛犬の四肢が梯子《はしご》のようにスルスルと伸び、猛犬の背がビルディングの五階に届く。そして寝坊のお内儀らしい女が、窓を明ける拍子に猛犬は女を押したおしてそこから窓の中へ飛びこむ。最後にこの「人造犬」の発明者が現われて犬の尻尾を棍棒でぶんなぐると、犬を動かしていた電気のスイッチが開き、猛犬は仰向けにゴロンと引繰りかえり、身体のなかからゼンマイや電池や電線がポンポン飛び出す——という大活劇であった。  帆村はその活動写真がたいへん気に入って、二度も三度も一銭銅貨を抛《な》げて、同じものを繰返し見物した。この「人造犬」というのは、彼が子供のときに見た記憶がなかった。その後、新しく輸入されて陳列されたものであろうが、実に面白い。  帆村は続いて、他の一銭活動写真の方に移っていった。  帆村が何台目かの一銭活動を覗きこんでいるときのことだった。すこし離れたところに於て、なにかガタンガタンという騒々しい音をだした者がある。折角の楽しい気分を削ぐ憎い奴だと思って、帆村は活動函から顔をあげてその方を見た。  音を立てているのは、腕に青い遊戯室係りの巾《きれ》を捲いた男だった。彼は活動函をしきりに解体しているのであった。その傍には、それを熱心に見守っている二人の男女があった。  女の方は洋髪に結った年の頃二十三、四歳の丸顔の和装をした美人だった。その顔立は、たしかに何処かで最近見たような気がするのであった。男の方は——と、帆村は眼をそっちへ移した瞬間、彼はもうすこしで声を出すところだった。それは余人ではなく、玉屋総一郎の殺人事件のあった夜、玉屋邸に於てしきりに活躍していた医師池谷与之助に外ならなかった。  池谷医師といえば、帆村が玉屋邸に赴く前に、正木署長から、邸内に現われた怪しき男として電話によって逸早く報道された人物だった。  しかし彼の住居は、この土地宝塚であるということだったから、今この新温泉に居たとて別に不思議はない筈だった。  でも彼は、こんな室内遊戯室に、何の用があって訪れたのだろうか。    尾行  帆村が数間先に立っていようとは、池谷医師も気がつかなかったらしい。  遊戯室係りの男は、いよいよ喧《やかま》しい音を立てて、一銭活動の函を取外していった。そしてやがて函の中から取出したのは、この一銭活動フィルムであった。  池谷医師はそのフィルムを受取って大きく肯くと、それを手帛《ハンケチ》に包んでポケットのなかに収めて、そして連れの女を促して、足早に遊戯室を出ていった。 (尾行したものか、どうだろうか?)  と、そのとき帆村は逡《ためら》った。  いつもの彼だったら、躊躇《ちゅうちょ》するところなく二人の男女の後を追ったことだろう。でもそのときは、恐ろしい惨劇事件に酷使した頭脳《あたま》を休めるために無理に余裕をこしらえて、この宝塚へ遊びにきていたのだった。そして折角楽しんでいたところへ、妙なことをやっている池谷医師を見たからといって、すぐさま探偵に還らなければならないことはないだろう。それはあまり商売根性が多すぎるというものだ。せめて今日ばかりは「蠅男」事件や探偵業のことは忘れて暮らしたい——と一応は自分の心に云いきかせたけれど、どうも気に入らぬのは池谷医師の行動だった。一銭活動のフィルムを持っていって、どうする気であろう。そして一体彼はどのようなフィルムを外して持っていったのだろう。 「うむ。そうだ。せめて池谷医師が外していったフィルムは何《ど》んなものだったか、それを確かめるだけなら、なにも悪かないだろう」  帆村は自分の心にそんな風に言訳をして、立っていたところを離れた。  近づいてみると、係りの男は活動函を元のように締めて立ち上ったところだった。彼は函の前に廻って覗き眼鏡のすぐ傍に挿しこんであった白い細長い紙を外しに懸った。それは函の中の一銭活動の題名を書いてある紙札であった。 「おやッ。——」  帆村は、なんとはなしにギョッとした。係りの男の外した紙札には、明らかに「人造犬《じんぞうけん》」の三文字が認められてあったではないか。あれほど先刻帆村が面白く見物した「人造犬」の活動写真だったのである。  係りの男は、帆村の愕きに頓着なく、そのあとへ「空中戦」と認めた紙札を挿しかえた。  帆村はもう辛抱することができなかった。 「ねえ、おっさん。さっき入っていた『人造犬』の活動は、警察から公開禁止の命令でも出たのかネ」  遉《さすが》に帆村は、聞きたいことを上手に偽装《カムフラージュ》して訊いた。 「イヤ、そやないねン。あの『人造犬』のフィルムを売ったんや」 「へえ、売った。——この遊戯室の活動のフィルムは誰にでもすぐ売るのかネ」 「すぐは売られへん。本社へ行って、あの人のように掛合って来てくれんと、あかんがな」 「そうかい。——で、あの『人造犬』のフィルムは、もう外《ほか》に持ち合わせがないのかネ」 「うわーッ、今日はけったいな日や。今日にかぎって、この一銭活動のフィルムが、なんでそないに希望者が多いのやろう。——もう本社にも有らしまへんやろ。本社に有るのんなら、あの人も本社で買うて帰りよるがな」  係りの男はぶっきら棒な口調で、これを云った。  帆村は、あのフィルムが一本しかないと聞いて、急に池谷医師の後を追いかける気になった。訳はよく分らんが、とにかくどうも怪しい行動である。もしあれを見ているのが自分でなくて正木署長だったら、池谷医師はその場に取り押さえられたことだろう。  帆村荘六は、もう骨休みも商売根性を批判することもなかった。彼は平常と変らぬ獲物を追う探偵になりきっていた。  新温泉の出口へ飛んでいった彼は、下足番《げそくばん》に、今これこれの二人連れが帰らなかったかと聞いた。下足番は今ちょっと先に出やはりましたと応えたので、帆村は急いで温泉宿の下駄を揃えさせると、表へ飛びだした。  帆村はなるべく目立たないように、新温泉の前をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりした。そして狙う二人の男女が、新温泉の前をずっと奥の方へ歩いてゆくのを遂に発見した。彼は鼻をクスリと云わせて、旅館のどてら[#「どてら」に傍点]に懐手《ふところで》といういでたちで、静かに追跡を始めたのだった。  二人の男女はクネクネした道をズンズン歩き続けた。帆村は巧みに二人の姿を見失わないで、後からブラリブラリとついていった。その間にも彼は、池谷医師の連れの美人が誰の顔に似ているかを思い出そうと努めた。ところが、殆んど分っているようでいて、なかなか思い出せないのであった。丸顔の女を、何処で見たのだろう。前に歩いていた二人の男女の姿が、急に道の上から消えた。 「呀《あ》ッ、どこへ行ったろう」  帆村は先に見える辻までドンドン駈けだしてみたけれど、どの方角にも二人の姿はなかった。最後のところまで行ってとうとう巧く撒かれてしまったか、残念なと思いながら引返してくる帆村の目に、傍の大きな文化住宅の門標が映った。瀟洒《しょうしゃ》な建物には似合わぬ鉄門に、掲げてある小さい門標には「池谷控家」の四字が青銅の浮き彫りに刻みつけてあった。 「うむ、ここへ這入ったんだな」帆村はホッと吐息をついた。これは控家とあるからには、池谷医師の医院は別のところにあるのだろう。これは住居らしいが、なかなか豪勢なものであった。若い女も此処に入ったとすると、あれは池谷医師の妻君だったかなと思った。  こうして池谷医師の行方はつきとめたけれども、この儘《まま》で入ると、鳥渡《ちょっと》具合がわるい。すこし計略を考えた上でないと、かえって物事が拙《まず》くなると思った帆村は、服でも着かえなおしてくるつもりで、門前を去って、もと来た道の方へ引きかえしていった。  半丁ほど行ったところで、彼は向うから一人の麗人が静かに歩いてくるのに逢った。 「おお、これは愕いた。糸子さんじゃありませんか」  その麗人は、惨劇の玉屋総一郎の遺児糸子であった。彼女は声をかけた主が帆村だと知ると、面窶《おもやつ》れした頬に微笑を浮べて近よってきた。 「もう外へ出てもいいのですか。何処へお出でなんです」 「ええ、ちょっと池谷さんのところまで」 「ああ池谷さんのところへ——なるほど」といったが、彼は遽《あわ》ただしく聞き足した。「あのウ、池谷さんには細君があるんでしょうネ」 「ホホホホ、まだおひとりだっせ」 「ナニ、独り者ですか、これは変だ」帆村は笑いもしない。 「貴女《あなた》、池谷さんに来いと呼ばれたんですか」 「はあ、午前中に来いいうて、電話が懸ってきましてん。そしてナ、誰にもうちへ来る云わんと来い、そやないと後で取返しのつかんことが出来ても知らへんと……」 「うむうむうむ」  帆村は何を思ったものか、無闇《むやみ》に呻《うな》り声をあげると、糸子の袖を引張って道の脇の林の中に連れこんだ。    怪しき眼  麗人糸子は、わるびれた様子もなく、「池谷控家」と門標のうってある文化住宅のなかへズンズンと入っていった。しかし僅かここ数日のうちに、痛々しいほど窶《やつ》れの見える糸子だった。  糸子の父は、蠅男から送られた脅迫状のとおりに正確に殺害された。それはあまりにも酷い惨劇であった。お祭りさわぎのように多数の警官隊にとりまかれながら、奇怪にも邸内の密室のなかに非業《ひごう》の最期をとげた糸子の父、玉屋総一郎。彼女にはもう父もなく、母とはずっと昔に死に別れ、今は全く天涯の孤児とはなってしまった。麗人の後姿に見える深窶《ふかやつ》れに、だれか涙を催さない者があろうか。  それにしても、憎んでも飽き足りないのは彼の蠅男! 蠅男こそ稀代の殺人魔である。  しかし正体の知れない蠅男であった。帆村探偵の出した答によると、蠅男は密室のなかに煙のように出入する通力をもち、そして背丈はおよそ八尺もある非常に力の強い人物である。だがそんな化物みたいな人間が実際世の中に住んでいるとは誰が信じようか。しかも帆村は出鱈目をいっているのではない。彼は犯跡から精《くわ》しく正しく調べあげて間違いのない答を出したのだ。ああ稀代の奇怪! 蠅男とは、昔の絵草紙に出てくる大入道か?  蠅男の正体をどうしても突き止めねば、再び東京へかえらないと心に誓った青年探偵帆村荘六は、身はいま歓楽境宝塚新温泉地にあることさえ全く忘れ、全身の神経を両眼にあつめて疎林の木立の間から、池谷控家に近づきゆく糸子の後姿をジッと見まもっているのだった。さきほどの話合いで、糸子と帆村との間にはなにか、或る種の了解ができているらしいことは、糸子の健気《けなげ》な足どりによってもそれと知られる。  池谷医師から(きょうの午前中に、誰にも知らさず訪ねてこい、さもないと取りかえしのつかないことが起る)と電話された糸子だったが、その用事とは一体なにごとであろうか。  また池谷と連れだって、この控家のなかに入った若い丸顔の女性については、糸子は心あたりがないといったが、果して彼女は何者であろうか。  その怪しき女と池谷とが、宝塚の温泉のなかから一銭活動の「人造犬」というフィルムを買って持ちだしているんだが、それは何の目的あってのことだろう?  こんな風に考えてくると、帆村はこれから糸子を中心にして、向うに見える池谷控家のなかに起ろうとする事件が、これまでの数々の疑問にきっとハッキリした答を与えてくれるにちがいないことを思うと、旅館のどてらの下に全身が武者ぶるいを催《もよお》してくるのだった。——  さて糸子は帆村に注意されたとおり、一度とて後をふりむいたりなどせず、ひたすら彼女単身で訪ねたふりを装った。  彼女は池谷控家の玄関に立った。  玄関の扉が半開きになっていた。そこで呼び鈴の釦《ぼたん》を軽くおした上、なかに入っていった。それは勝手知ったる主治医の家であったから。  糸子の姿が扉のうちに消えてしまうと、帆村はさらに全身に緊張が加わるのを覚えた。彼は眼ばたきもせずに、木立の間から控家の様子を熱心に窺った。一分、二分……。何の変りもない。 「まだ大丈夫らしい。挨拶かなんかやっているところだろう」  暫くすると、二階の窓にかかっている水色のカーテンがすこし揺らいだのを、敏捷《びんしょう》な帆村は咄嗟《とっさ》に見のがさなかった。 「……二階へ上ったんだ」  そのときカーテンの端が、ほんのすこし捲《ま》くれた。そしてその蔭から、何者とも知れぬ二つの眼が現われて、ジッとこっちを眺めているのだった。 「誰? 糸子さんだろうか。ハテすこし変だぞ」  と思ったその瞬間だった。二つの怪しい眼は、突然カーテンの蔭に引込んだ。まあよかった——と思う折しも、いきなりガチャーンと凄《すさ》まじい音響がして、その窓の硝子が壊れてガチャガチャガチャンと硝子の破片が軒を滑りおちるのを聞いた。  帆村がハッと息をのむと、それと同時にカーテンの中央あたりがパッと跳ねかえって、そこから真青な女の顔が出た。 「あッ、糸子さんだッ。——」  思わず帆村の叫んだ声。いよいよ糸子の危難である。それは更に明瞭《めいりょう》となった。なぜならカーテンの間から、黒い二本の腕がニューッと出て一方の手は糸子の口をおさえ、他方の手は糸子の背後から抱きしめると、強制的に彼女の身体をカーテンのうちに引張りこんだから。 「な、何者!」  カーテンは大きく揺れながら、糸子と黒い腕の人物を内側にのんでしまった。  帆村は心を決めた。すぐさま邸内に踏みこもうとしたが、帆村は彼の服装がそういう襲撃に適しないのを考えてチェッと舌打ちした。屍体を焼く悪臭の奇人館に踏みこんだときも、彼は宿屋のどてら姿だった。いままた糸子の危難を救うために、謎の家に突進しようとして気がついてみれば、これもまたホテルで借りたどてら姿なんである。これでは身を守るものも、扉《ドア》の鍵を外す合鍵もなんにもない。頼むは二本の腕と、そして頭脳《あたま》の力があるばかりだった。思えば何と祟《たた》るどてらなんだろう。もうこれからは、寝る間だってキチンと背広を着ていなきゃ駄目だ。  帆村は咄嗟《とっさ》になにか得物《えもの》はないかとあたりを見廻した。  そのとき彼の目にうつったのは、叢《くさむら》の上に落ちていた一本の鉄の棒——というより何か大きな機械の金具が外れて落ちていたといった風な、端の方にゴテゴテ細工のしてある鉄の棒だった。それを無意識に拾いあげると右手にぐっと握りしめ、林の中からとびだした。そして正面に見える池谷控家へむかって驀地《まっしぐら》にかけだした。    麗人《れいじん》の行方  目捷《もくしょう》に麗人糸子の危難を見ては、作戦もなにもあったものではない。最短距離をとおって、ドンと敵の胸もとに突撃する手しかない。  下駄ばきで、カラカラと石段を玄関に駈けあがるのもおそしとばかり、帆村は正面の扉をドーンと押して板の間に躍りあがった。 (階段はどこだ!)  廊下づたいに内に入ると、目についた一つの階段。彼は糸子の名を連呼しながら、トトトッとそれを駈けのぼった。  だが糸子の声がしない。すこし心配である。 「糸子さアん!」  二階には間が三つ四つあった。帆村はまず表から見えていた十畳敷ほどの広間にとびこんだ。 「居ない!」  糸子の姿は見えない。水色のカーテンが静かに垂れ下っているばかりだ。  押入の中か? 彼はその前へとんでいって襖をポンポンと開いてみた。中には夜具《やぐ》や道具が入っているばかりで糸子の着物の端ひとつ見えない。  さて困った。糸子はどこへ行ったのだろう。次の部屋だ。——  そのとき帆村の脳裏に、キラリと閃《ひらめ》いた或る光景があった。それは糸子が宙に吊りあげられているという、見るも無慚な姿だった。彼女の白い頸には、一本の綱が深く喰いこんでいるのである。…… (ああ厭だッ)  帆村は両手で目の前にある幻をはらいのけるようにした。それは彼にとって不思議な経験だった。これまで彼は数多《あまた》の残虐な場面の中に突進した。しかし一度だって、恐ろしさのために躊躇をしたり厭な気持になったことはない。それは職業だと思うからして起る冷静さが、そういう感情の発露《はつろ》をぎゅッとおさえたのである。しかしいま糸子の場合においては、それがどういうものか抑えきれなかったのは不思議というほかない。糸子がそんな残虐な姿になるには、あまりに可憐だったからであろうか。それとも帆村が彼女の危難を知りながらも、この邸内に送りこんだ責任からだろうか。とにかく帆村にとっては、糸子の苦しんでいる姿を見ることさえ辛く感ずるのだった。彼は急に気が弱くなったようである。それはなぜであろうか。 「糸子さアん、どこにいますかッ」  帆村は怒号しながら、次の部屋の襖をパッと開いた。ああそこにも糸子の姿は見えなかった。そこは八畳ほどの和室だった。押入の襖《ふすま》が一枚だけ開いて、箪笥《たんす》の引出が一つ開いて男の着物がひっぱりだされている。  それだけのことだった。糸子の姿はやっぱり見あたらない。  日頃冷静を誇る帆村もすこし焦《じ》れてきた。  彼はその部屋を出て、北側にある洋間の扉を開いて躍りこんだ。しかしそこにも卓子や肘掛椅子が静かに並んでいるだけで、別に糸子が隠れているような場所も見当らなかった。  しかしこの部屋に入ると共に、帆村の鼻を強くうった臭気があった。 「変な臭いだ。何の臭いだろう」  スーッとする樟脳《しょうのう》くさい匂いと、それになんだか胸のわるくなるような別の臭いとが交っていた。  彼は気がついて筒型の火鉢のそばへ駈けよった。 「あッ熱《あつ》ッ」火鉢のふちは何《ど》うしたわけか焼けつくように熱かった。帆村はそれに手を懸けたため、思わない熱さに悲鳴をあげた。  火鉢のなかには、赭茶けた灰の一塊があった。これは何だろう。その灰の下を掘ってみたが、そこには火種一つなかった。悪臭が帆村の鼻をついた。 「ああそうか。あのフィルムをこの火鉢の中で焼いたんだ。『人造犬』のフィルムを買って来て、この火鉢のなかで焼いたというわけか」  帆村は悪臭にたえられなくなって、窓に近づいてそこを開いた。冷い風がスーッと入ってきた。なぜフィルムを焼いたりしたんだろうか。そのとき彼は何気《なにげ》なく外を見た。そこはこの控家の裏口だった。垣根の向うに、どこから持ってきたのか一台の自動車がジッと停っていた。運転台も見えるが、人の姿はなかった。 「糸子さんは一体どこへ行ったのだろうか。たしかこの二階に上っていたんだが」  帆村は滅入《めい》ろうとする自分の心になおも鞭うって、廊下に出た。どこか秘密室でもあって、そのなかに隠されているのではなかろうかと思って探したけれど、この二階に関する限りでは別に秘密室も見当らないようであった。  そのときだった。家の外でゴトゴトジンジンと音が聞こえてきた。それは自動車のエンジンが懸ったのに違いない。自動車! 帆村はハッと気がついた。そうだ、家の裏口に自動車が停っているのを見たっけ。 「うん、失敗《しま》ったッ」  帆村の叫んだときはもう遅かった。北側の窓のところに駈けつけてみると、目の下に自動車は静かに動きだしたところだった。裏口の木戸が開かれている。誰かその木戸から出ていって自動車にのったに違いない。そして帆村は見た。その幌型《ほろがた》の自動車の運転台に、黒い服を身にまとった人物が腰をかけていたのを。  その人物こそ、さっき二階で、糸子をカーテンのなかに引ずりこんだ怪人に相違なかった。彼はいま自動車にソッとうちのり、何方へか逃げようとしているのだ。黒い服の人物は何者? 不幸にして帆村は、彼の後姿を肩のあたりにだけ認めたばかりであって、怪人物の顔を見ることはできなかった。  しかし彼こそ、恐るべき脅迫状の送り主「蠅男」なのではあるまいか。いや、それともこの家の主人である池谷医師でもあったろうか。いずれにしても帆村は、その自動車に乗った人物を逃がしてはならないと思った。  糸子のことも気がかりであったけれど、怪人物の行方はさらに重大事であった。それにまた、怪人物は自由を失った糸子をその自動車に無理やりに積みこんで、共に逃げていくところだったかも知れないのである。ここはどうしても怪人の跡を追うのが正道であった。帆村は階段を転げ落ちるようにして、足袋はだしのまま裏口から、自動車の後を追いかけた。    山中の追跡  幸いにも、池谷控家の裏通りは道が狭かったから、自動車はスピードをあげることができないで、タイヤが溝《みぞ》のなかに落ちるのを気にしながらノロノロと動いていた。帆村はそれと見るより、百メートルほど後方から猛烈にダッシュしていった。それが分ったものか、自動車はスピードをすこし早めた。自動車は生垣にゴトンゴトンとつきあたって、今にも幌が裂けそうに見えた。それにも構わず、無理なスピードを懸けていった。  帆村は懸命にヘビーをかけた。もうすこしで自動車のうしろに飛びつける。——と思った刹那《せつな》、自動車はガタンと車体をゆすって頭を右にふった。広い舗道へ出たのだ。 「うぬ、待てエ」  帆村は激しい息切れの下から、ふりしぼるような声で叫んだ。しかしそれは既に遅かった。自動車はわずかのちがいで、舗道に乗った。そして帆村を嘲笑するかのように悠々とスピードをあげて走っていく。  帆村は文字どおり切歯扼腕《せっしやくわん》した。もうこうなっては、残念ながら人間の足では競争が出来ない。  何か自動車を追跡できるような乗り物はないか。  そのとき不図《ふと》前方を見ると、路地のところから鼻を出しているのは紛《まぎ》れもなくオートバイだった。これはうまいものがある。帆村は躍りあがってそこへ飛んでいった。  それはオートバイと思いの外《ほか》、自動《オート》三輪車であった。それは大阪方面の或る味噌屋《みそや》の配達用三輪車であって、車の上には小さな樽がまだ四つ五つものっていた。そして丁度そのとき店員が傍の邸の勝手口から届け票を手にしながら往来へでてきたので、帆村は早速その店員のところへ駆けよった。  そこで口早に、車を貸してもらいたいという交渉が始まった。店員は目をパチクリしているばかりだった。なにしろ犯人追跡をやるんだから、ぜひ貸してくれといったが、店員は主人に叱られるからといって承知しなかった。そのうちにも時刻はドンドン経っていく。千載の一遇をここで逃がすことは、とても帆村の耐えられるところでなかった。 (問答は無益だ!)  帆村は咄嗟《とっさ》に決心をした。隙《すき》だらけの店員の顎《あご》を狙って下からドーンとアッパーカットを喰わせた。店員は呀《あ》ッともいわず、地上に尻餅をつくなり長々とのびてしまった。 「済まん済まん。あとから僕を思う存分殴らせるから、悪く思わんで……」  と、心の中で云いすてて、帆村は車の上にまたがった。そしてエンジンを懸けて走りだそうとしたが、彼はこのときなにを思ったものか、また地上に下りて、伸びている店員先生を抱き起した。  活を入れると、店員先生はすぐにウーンと呻りながら気がついた。それを見るより、帆村は店員先生を背後から抱えて、車の後部に積んだ味噌樽の上に載せた。  このとき店員先生はやっと、この場の事情を知った。 「こら、何をするんや、泥棒!」  拳骨を喰うわ、車は取られるわ、この上車の上に載せられようとする。彼は憤慨の色を浮べるより早く、帆村に喰ってかかるために樽の上に立ち上ろうとした。  帆村は早くもこれに気づいた。 「まあ落つけ」  彼は一言そう云ってヒラリと車に跨《またが》ると、素早くクラッチを踏んだ。自動《オート》三輪車は大きく揺れると、弾かれたように路地から走りだした。 「ああッ、あぶないあぶない」  店員先生は樽の上に立ちあがろうとしたが、たちまち車が走りだしたもので、車からふり落とされそうになった。それでまた屁ッぴり腰をして樽の上に蹲《かが》み、そして車からふりおとされないために顔を真赤にして一生懸命荷物台に獅噛《しが》みついた。 「こら、無茶するな、泥棒泥棒」 「そうだそうだ。もっと大きな声で呶鳴《どな》るんだ」 「ええッ」と店員先生は怪訝《けげん》な顔をしたが、「おお皆来てくれ、泥……」  といいかけて首をかしげた。 「こら妙なこっちゃ。この泥棒野郎が車を盗みよって、乗り逃げしてるのや。しかしその車の上にはチャンと俺が載っているのや。すると俺は車を盗まれたことになるやろか、それとも盗まれてえへんことになるやろか、一体どっちが本当《ほんま》やろか、さあ訳がわからへんわ」  ゴトゴトする樽の上に店員先生が車を盗まれたのかどうかということを一生懸命考えている間に、帆村は眼を皿のようにして前方に怪人の乗った自動車をもとめて自動三輪車を運転していった。  怪人の自動車は、道を左折して橋を渡ったものらしい。  温泉場の間を縫って狂奔していく三輪車に、湯治の客たちは胆をつぶして道の左右にとびのいた。  帆村は驀地《まっしぐら》に橋の上をかけぬけた。それから山道に懸ったが、やっと前方に怪人の乗った自動車の姿をチラと認めた。 「うむ、向うの方へ逃げていくな」  道が悪くて、軽い車体はゴム毯《まり》のように弾《はず》んだ。そのたびごとに、樽の上に御座る店員先生は悲鳴をあげた。 「モシ、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃん。この道はどこへ続いているんだね」  暴風雨《あらし》のような空気の流れをついて、帆村が叫んだ。 「この道なら、有馬へ出ますわ。お店と反対の方角やがナ」  店員先生が、半泣きの声で答えた。 「うむ、有馬温泉へ出るのか。——あと何里ぐらいあるかネ」 「そうやなア。二里半ぐらいはありまっせ」 「二里半。よオし、なんとしても追いついてやるんだ」  帆村の姿と来たら、実にもう珍無類《ちんむるい》だった。これはあまりにも勇ましすぎた。若い婦人に見せると、気絶をしてしまうかも知れない。なにしろ、正面からの激しい風を喰《くら》って、どてらの胸ははだけて臍《へそ》まで見えそうである。その代り背中のところで、どてらはアドバルーンのように丸く膨《ふく》らんでいた。ペタルの上を踏まえた二本の脚は、まるで駿馬《しゅんめ》のそれのように逞《たくま》しかったが、生憎《あいにく》とズボンを履いていない。帆村は怪人の自動車を追いかけるひまひまに、どてらの禍《か》をくりかえしくりかえし後悔していた。    現われた蠅男  帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いがしたのであろうか、とにかく店員先生は三輪車のうしろに獅噛《しが》みついたまま、もう泥棒などとは喚《わめ》かなかった。 「おう、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃんよオ」  帆村はまた声を張りあげて叫んだ。 「なんや、俺のことか」 「君、何か書くものを持っているだろう」 「持ってえへんがな」 「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ」  帆村はハアハアと息をきった。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。 「その紙片をどないするねン」 「ううン。——その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい」 「誰が字を書くねン」 「あん[#「あん」に傍点]ちゃんが書いておくれよ」 「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」 「なんでもいい。是非《ぜひ》書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」 「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」 「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア」  これが店員先生に頗《すこぶ》る利いた。 「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもしどてら[#「どてら」に傍点]の先生、気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」  帆村は向うを向いて苦笑いをした。 「君の名は何という」 「丸徳商店の長吉だす」 「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。——蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村」 「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」 「ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」 「うへーッ、蠅男! するとこれはあの新聞に出ている殺人魔の蠅男のことだすか」 「そうだ。その蠅男らしいのが、向うに行く自動車のなかに乗っているんだ」 「うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまうがな。字やかて書けまへん。お断りや」 「また断るのかネ。じゃ、崖から車ごと飛び下りてもいいんだネ」 「うわーッ、それも一寸待った。こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても生命がないわ。こんなんやったら、あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占師が、お前は近いうち女の子で失敗するというとったがこら正《まさ》しくほんま[#「ほんま」に傍点]やナ」 「さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向うに人家が見える。紙片を落とすのに都合がいいところだ。——さあ、ペンを持ってハエオトコとやった。——」 「うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ」  たいへんな手間取りようであったが、遂に帆村の命令が店員長吉によって行われた。長吉は樽の上に腹匍《はらば》いになって、書きにくい字を書いた。そして一枚書けると、それを手帳からひきちぎって外に撒いた。始めは容易に肯《がえ》んじないでも、一旦承知したとなると全力をあげて誠実をつくすのが長吉のいい性格だった。彼はこの困難な仕事を一心不乱にやりつづけた。  自動車はすっかり山の中へ入ってしまった。怪人の乗った自動車との距離はだんだんと近づいて、あと二百メートルになった。この調子では間もなく追いつくことができるだろう。帆村は歯ぎしり噛んで、ハンドルをしっかりと取り続けた。彼の全身は風に当って氷のように冷えてきた。ガソリンの尽きないことが唯一の願いだった。  上り道が左の方に曲っている。  まず怪人の乗った自動車が左折して、山の端から姿を消しさった。続いて帆村と長吉との乗った自動三輪車がポクポクとあえぎながら坂道をのぼっていった。そして同じく山の端《はし》をぐっと左折した。このとき帆村は、前方にこんどは下りゆく自動車が急に道から外れそうになって走るのを見た。 「呀《あ》ッ、危いッ」  と、声をかけたが、これはもう遅かった。怪人の乗った自動車は、どうしたわけか次第に右に傾いて二、三度揺ぐと見る間に、車体が右に一廻転した。下は百メートルほどの山峡だった。何条もってたまるべき、横転した自動車は弾《はず》みをくらって、毬のようにポンポン弾みながら、土煙と共に転げ落ちていった。そして遂に下まで届くと、くしゃと潰れてしまった。帆村は辛うじて制動をかけて、三輪車を道の真中に停めた。 「うわーッ、えらいこっちゃ」 「うむ、天命だな。あんなに転げ落ちてはもう生命はあるまい」  帆村と長吉とは、車から下りて呆然と崖の底をジッと見下ろした。土煙がだんだん静まって、無慚《むざん》にも破壊した車体が見えてきた。車体は裏返しになり、四つの車輪が宙に藻《も》がいているように見えた。  暫くジッと見つめていたが、車のなかからは誰も這いだしてこなかった。 「さあ、すぐ下りていってみよう。自動車のなかには、誰が入っているか、そいつを早く調べなきゃならない。長どん、一つ力を貸してくれたまえ」 「大丈夫だすやろか。近づくなり蠅男が飛びだして来やしまへんか」 「いいや大丈夫だろう。死んでいるか、または気絶しているかどっちかだよ。しかし何か得物をもってゆくに越したことはないだろう」  気がついてみると帆村は腰に一本の鉄の棒を差していた。これは先刻、池谷控家の前の林の中で拾った護身用の鉄棒だった。帯に挿んで背中にまわしてあったので、うまく落ちないで持ってこられたのだった。長吉は仕方なく腰から手拭いを取って、その端に手頃の石をしっかり包んだ。もし蠅男がでたら、端をもってこの包んだ石をふりまわすつもりだった。  二人は、背の丈ほどもある深い雑草のなかを掻《か》きわけるようにして、山峡を下りていった。  十分ほど懸って、二人は遂に谷の底についた。幌《ほろ》は裂け鉄板は凹み、車体は見るも無慚《むざん》な壊《こわ》れ方《かた》であった。  帆村は勇敢にも、ぐるっと後部の方に廻ってから自動車の方に匍っていった。長吉は固唾《かたず》を嚥んで、帆村の態度を注視していた。  帆村は飛びつくようにして遂に車体にピッタリとくっついた。彼の首が次第次第に上ってきて、やがて幌の破れ目から車内を覗きこんだ。  そのときである。帆村が胆をつぶすような大きな声で叫んだのは……。 「これは変だ。自動車は空っぽだ。中には誰も乗っていないぞッ」    愕《おどろ》くべきニュース  折角《せっかく》幌自動車に追いついて、はては崖下まで探しに行ったのに、このなかにはから[#「から」に傍点]紅《くれない》の血潮に染まった怪人の屍体があるかと思いの外、誰も居ない空っぽであった。  帆村は真赤になって地団駄《じだんだ》をふんで口惜しがったが、それとともに一方では安心もした。彼はこの車の中にひょっとすると糸子が入っているかも知れないと思っていたのだ。或いは無慚《むざん》な糸子の傷ついた姿を見ることかと思われていたが、それはまず見ないで助かったというものだ。 「帆村はん。この自動車を運転していた蠅男はどうしましたんやろ」 「さあ、たしかに乗っていなきゃならないんだがなア、ハテナ……」  帆村が小首をかしげたとき、二人は警笛の響きを頭の上はるかのところに聞いてハッと硬直した。 「あれは——」と、崖の上を仰いだ二人の眼に、思いがけない実に愕くべきものが映った。  さっき二人が乗り捨ててきた自動《オート》三輪車のそばに、一人の怪人が立っていて、こっちをジッと見下ろしているのであった。彼は丈の長い真黒な吊鐘《つりがね》マントでもって、肩から下をスポリと包んでいた。そしてその上には彼の首があったが、象の鼻のような蛇管《だかん》と、大きな二つの目玉がついた防毒マスクを被っていた。だから本当の顔はハッキリ分らなかった。ただ丸い硝子《ガラス》の目玉越しにギラギラよく動く眼があったばかりであった。 「呀《あ》ッ、あれは誰だす」 「うむ、今はじめて見たんだが、あれこそ蠅男に違いない」 「ええッ、蠅男! あれがそうだすか」 「残念ながら一杯うまく嵌《は》められた。自動車があの山の端を曲ったところで、蠅男はヒラリと飛び下りて叢《くさむら》に身をひそめたんだ。あとは下り坂の道だ。自動車はゴロゴロとひとりで下っていったのだ。ああそこへ考えがつかなかった。とにかく一本参った。しかし蠅男の姿をこんなにアリアリと見たのは、近頃で一番の大手柄だ」  帆村は下から、傲然《ごうぜん》と崖の上に腕をくんで立つ蠅男を睨《にら》みつけた。 「呀ッ、帆村はん。あいつは味噌樽《みそだる》を下ろしていまっせ」 「うん、蠅男はあの三輪車に乗って逃げるつもりなんだ。僕たちが崖へ匍《は》いのぼるまでには、すくなくとも三、四十分は懸ることをチャンと勘定にいれているんだ。その上、うまく崖の上に匍いあがっても、僕たちに乗り物のないことを知っているんだ。まるで、ジゴマのように奸智《かんち》にたけた奴……」  と、そこまで云った帆村は、急に言葉を切った。そして長吉の身体をドーンと突くなり、 「おう、危い。自動車のうしろに隠れろッ」  と早口で命令した。  その言葉が終るか終らないうちに、ブーンと風を切って落ちてきたのは三貫目の味噌樽だった。二人がもうすこし気がつかないで立っていたとしたら、彼等のどっちかがその恐ろしい勢いで落ちてきた味噌樽のために、頭蓋骨を粉砕されなければならなかったろう。  味噌樽は、なおも上からピューンと呻《うな》りを生じて落ちてきた。その勢いの猛烈なことといったら、地面に落ちて、地雷火のように泥をはねとばし、壊れ自動車に当っては、鉄板をひきちぎって宙に跳ねあげるという凄い勢いであった。なんという強力なんだろう。見かけは普通の人とあんまり違わぬ背丈でありながら、まるで仁王さまが砲弾なげをするような激しい力を持っているのだった。そのとき何処からともなく、飛行機のプロペラらしい音響が聞えてきた。  すると、蠅男は可笑しいほど俄《にわか》に周章《あわ》てだした。最後の樽をなげつけてしまった彼は、ひらりと自動三輪車の上にとびのると、エンジンをかけた。そして鮮やかなハンドルの切り方でもって、ドンドン走りだした。  長吉は憤慨のあまり、下から石をぶっつけたが、どうしてそんなものが崖の上まで届くものではない。遂に蠅男は口惜しがる帆村と長吉とを谿底《たにぞこ》へ置いて山かげに姿を消してしまった。聞えていた飛行機のプロペラの音も、そのうちに何処ともなく聞えなくなった。  帆村と長吉とは、生命びろいをしたことに気がついた。そこで勇気をつけて、一旦下りた崖を、またエッチラオッチラと上っていった。十分で下りたところが、三十五分も懸ってやっと崖の上に匍いのぼれた。  二人は夕方の山道をトコトコと歩いていった。三十分ほどして、やっと一台のハイヤーが通りかかった。二人の老人の客が乗っていたけれど、無理に頼んでそれに乗せて貰い、蠅男の逃げていった有馬温泉の方角へ進撃していった。  有馬では、警察からまだ何の手配も出ていなかった。手配の電話が懸って来たのは、帆村が大阪への電話を申込んだその後からだった。手配の紙片が、それでも誰かに拾われたことか判った。しかしこうなってはすべてあとの祭りだった。なにしろ手配の自動車は山峡に落ちているのだから。  リンリンリンと電話が懸ってきた。駐在所の警官が出た。 「ああ村松検事どのでございますか。はア帆村さんはいらっしゃいます」  帆村は疲れを忘れて、電話口へ飛びついた。彼は村松検事に、今日の顛末《てんまつ》を手短かにのべて、盗まれた三輪車と蠅男の手配をよく頼んだ。そして電話が切れるとグッタリとして、駐在所の奥の間に匍いこむなり、疲れのあまり死んだようになって睡った。樽の上で踊った長吉もお招伴《しょうばん》をして、帆村の側らにグウグウ鼾《いびき》をかいた。それから何時間経ったか分らないが、帆村は突然揺り起された。 「また村松検事どのから、お電話だっせ」  帆村は痛む手足のふしぶしを抑えながら、電話口に出た。そのとき彼は、愕《おどろ》きのあまり目の覚めるような知らせを、村松検事から受けとった。 「ええッ、本当ですか。今日の夕刻、鴨下ドクトルが奇人館にひょっくり帰ってきたんですって? ほほう、貴方はもうドクトルが永久に帰ってこないと仰有っていましたのにねエ。ほほう、そうですか。いやそれは僕も愕きましたよ、ほほう」    蠅男の正体?  鴨下《かもした》ドクトルが八日目にひょっくり、奇人館に帰ってきたという知らせである。  帆村の愕《おどろ》きもさることながら冷静をもって聞えるあの村松検事でさえ、その愕きを電話口に隠そうとさえしなかったほどだ。検事は、鴨下ドクトルが再び館にかえって来ないと断言したくらいだから、ドクトル帰邸の知らせは全く寝耳に水の愕きだったのだろう。鴨下ドクトルは何処に行っていたのだろうか。  娘を東京から呼んでおきながら約束を破ってドクトルが旅行に出たのは何故だろう。  それからまた、ドクトルの留守中に、突然何者とも知れぬ男の屍体が焼かれ、機関銃手がとびだしたりしたことに果してドクトルは無関係だったのだろうか。  蠅男の脅迫状は、なぜドクトル邸の暖炉の上に置かれてあったのだろう。  そういう疑問のかずかずが、鴨下ドクトルの口から聞きただされる時機が来たのだ。ドクトルの答によって蠅男の正体はいよいよ明らかになるであろう。帆村探偵は大阪へ帰って、検事たちから聞くことができるであろうドクトルの告白に、非常な期待をおぼえたのであった。 「だが、蠅男を見たのは、恐らく捜査側では自分だけだろう」  帆村は、そのことについて些《いささ》か得意であった。それは実に大きな土産話である。  蠅男というやつは、実に力の強い奴で、三貫目の味噌樽を、あたかも野球のボールを叩きつけるように楽々と抛《な》げた。そして自動車も操縦できれば三輪車にも乗れるというモダーン人だ。  しかしよく考えてみると、蠅男について分っているのはそれだけであった。どんな身体つきをしているのか、それは黒い吊鐘マントの下に蔽われていてハッキリ分らない。それからまたどんな容貌をしているのか、それは防毒面みたいなものを被っているので、これもハッキリ分らない。ただ気味のわるい二つの眼がギロギロと動くのを見たばかりである。  いや、もっと分らないところがある。帆村はさきに玉屋総一郎の殺された密室を調べた挙句、蠅男について次のような推理をたてた。つまり、 「蠅男の背丈は八尺である。そして蠅男は一升|桝《ます》ぐらいの四角な穴を自由に出入する人間である」  というのであるが、崖上に見たあの蠅男は、五尺四、五寸しかない普通の人間の背丈に見えた。況《いわ》んや一升桝の間を抜けるような細い身体のようには見えなかった。すると、あれは蠅男でなかったのであろうか。いや、あの崖上の怪人物が蠅男でなくて、誰が蠅男であろうか。すると身長八尺で一升桝ぐらいの穴もくぐれる人物という帆村の推理が合わないことになる。 「これは、どうも自分の推理が間違っていたのかナ、違うはずはないんだが」  帆村探偵の自信は俄《にわ》かにグラつきだした。彼は遂に、眼から入ってきた蠅男の姿に、幻惑《げんわく》されてしまったのである。深い常識のために、推理の力を鈍らせてしまったのである。これは後になって、ハッキリと分った話であるが、蠅男に対する彼の推理は決して間違っていなかったのだ。帆村はもっと考えるべきだった。ここで玉屋総一郎の屍体の頸部《けいぶ》に附いていた奇妙なる金具のギザギザ溝《こう》の痕をなぜ思い出さなかったのだろう。玉屋総一郎の頸部に打ちこんだ鋭い兇器がどんなものであって、どこの方角からどうして飛んできたものかを、何故考えなかったのだろう。それからまた池谷医師たちが宝塚新温泉の娯楽室から持ちだした一銭活動のフィルム「人造犬」のことをなぜ連想しなかったんだろう。いや、まだある。現に彼は今、有馬温泉の駐在所に寝ころがっているが、その枕許に置いてある奇妙な形をした一本の鋼鉄棒がある。彼はそれを池谷邸に近い林の中で護身用として拾ったのである。彼がその棒について、もっと深い興味をもっていたとすれば、それだけでも蠅男の正体を掴む余程の近道とはなったであろうに、流石《さすが》の帆村探偵も早くいえば蠅男をそれほどの怪人物だとは思っていなかったせいであろう。  なにもそれは帆村探偵だけのことではない。世間では誰一人として、蠅男が過去にも未来にも絶するそのような奇々怪々なる人間だとは、気がついていなかったのだ。蠅男こそは有史以来二人とない怪人だったのである。さて、いかなる怪人であったろうか。それを知るのは、極《ご》く小数の人々だけだった。しかも彼等は蠅男の正体を語るを好まないか、またはそれを語ることができない事情の下にあった。  だから目下のところ読者諸君はやむなく、村松検事以下の検察当局の活動と、青年探偵帆村荘六の闘志とに待つよりほかに蠅男の正体を知る手がないのである。  鬼か人か、神か獣か?  蠅男の正体が、白日下に曝《さら》されるのは何時の日であろうか。    意外なる邂逅  有馬温泉の駐在所における何時聞かの前後不覚の睡眠に帆村もすこしく元気を回復したようであった。  彼はそれから先の行動を、あれやこれやと考えた挙句、遂に決心して一台の自動車を呼んで貰った。  やがて遠くからクラクションの響きが伝わってきたと思ったら、頼んであった自動車が家の前に来て停った様子、帆村は味噌問屋の小僧さん長吉《ちょうきち》を促して、警官たちに暇をつげるなり車上の人となった。  温泉町は、もうすっかり夜の闇に沈んでいた。硫黄の強い匂いをのせた風が、スーッと流れて来た。帆村は急に、温い湯につかって疲労を直したい衝動に駆られた。  しかし彼は、すぐそのような衝動をなげすてていた。これから蠅男との戦闘が始まるのである。玉屋総一郎の忘れ形身の糸子はどこにどうしているのだろう。彼女は果して安全に身を護っているのだろうか。池谷邸に入ったまま、姿を消して杳《よう》として行方が知れなくなったこの麗人の身の上を、帆村はすくなからず憂慮しているのだった。池谷邸の二階の窓に、糸子を背後から襲った怪人こそは、あれはたしかに蠅男に違いない。蠅男は糸子をどんな風に扱ったのであろうか。  帆村が疲れ切った身体を自ら鼓舞《こぶ》して、再び車で宝塚へ引返そうと決心したのも、直接の動機はこの可憐《かれん》なる糸子の安危をたしかめたいことにあった。彼女の父親を、蠅男から護ろうと努力していながら、遂に蠅男のためにしてやられ、糸子を孤児にしてしまった。その責任の一半は、帆村自身にあるように思って、彼はこの上は、自分の生命にかけて蠅男を探しだすと共に、糸子を救いださねばならないと決心しているのだった。  暗い山路を縫って、約一時間のちに自動車は宝塚に帰ってきた。  そこで長吉は、西の宮ゆきの電車に乗りかえて、駐在所から貰った証明書を大事にポケットに入れたまま、帆村に別れをつげて帰っていった。帆村はこの少年のために、そのうち主家を訪ねて弁明をすることを約束した。  ホテルでは、愕き顔に帆村を迎えた。  なにしろ朝方ドテラ姿でブラリと散歩に出かけたこの客人が、昼食にも晩餐にも顔を見せず、夜更けて、しかも見違えるように憔悴して帰ってきたのだから。 「えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ」 「いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから」 「はアはア、そうでっか、お惚《のろ》け筋で、へへへ、どちらまで行きはりました」 「ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ」 「はア、これだす」と帳場の台の上から大きな札のついた鍵を手渡しながら、不図《ふと》思い出したという風に「ああ、お客さん、あんたはんにお手紙が一つおました。忘れていてえろうすみまへん」 「ナニ手紙?」  帳場の事務員は、帆村に一通の白い西洋封筒を手渡した。帆村がそれを受取ってみると、どうしたものかその白い封筒には帆村の名前も差出人の名前も共に一字も書いてなかった。その上、その封筒の半面は、泥だらけであった。帆村はハッと思った。しかしさりげない態で、ボーイの待っているエレヴェーターのなかに入った。  帆村は四階で下りて、絨毯の敷きつめてある狭い廊下を部屋の方へ歩いていった。  扉の前に立って、念のために把手《ハンドル》を廻してみたが、扉はビクともしなかった。たしかに、錠は懸っている。  なぜ帆村は、そんなことを検《ため》してみたのであろう。彼はなんとなく怪しい西洋封筒を受取ってから、急に警戒心を生じたのであった。  扉には錠が懸っている。  まず安心していいと、彼は思った。そして鍵穴に鍵を挿入して、ガチャリと廻したのであった。その瞬間に、彼は真逆自分が、腰を抜かさんばかりに吃驚《びっくり》させられようとは神ならぬ身の知るよしもなかった。しかし事実、扉一つ距《へだ》てた向うに彼の予期しない異変が待ちうけていたのである。  帆村は、鍵を穴から抜いて、片手にぶら下げた。そして把手をグルッと廻して、扉を内側に押した。部屋のなかは、真暗であった。  扉を中に入ったすぐの壁に、室内灯のスイッチがあった。  帆村は、手さぐりでそのスイッチの押し釦《ボタン》を探した。押し釦はすぐ手にふれた。彼は無造作に、その押し釦を押したのであった。  パッと、室内には明るい電灯が点いた。その瞬間である。彼は、 「呀《あ》ッ!」  といって、手に持っていた鍵を床の上にとり落とした。それも道理であった。空であるべきはずのベッドの上に、誰か夜着をすっぽり被って長々と寝ている者があったのである。 「もしや部屋を間違えたのでは……」  と、咄嗟《とっさ》に疑いはしたが、断じて部屋は間違っていない。自分の部屋の鍵で開いた部屋だったし、しかも壁には、見覚えのある帆村のオーバーが懸っているし、卓子の上にはトランクの中から出したまま忘れていった林檎までが、今朝出てゆくときと寸分たがわずそのとおりに並んでいるのだった。自分の部屋であることに間違いはない。  さあ、すると、ベッドの上に寝ているのは一体何者だろう。  帆村の手は、音もなく滑るように、懸けてあるオーバーの内ポケットの中に入った。そこには護身用のコルトのピストルが入っていた。彼はそれを取出すなり、二つに折って中身をしらべた。 「……実弾はたしかに入っている!」  こうした場合、よく銃の弾丸が抜きさられていて、いざというときに間に合わなくて失敗することがあるのだ。帆村はそこで安心してピストルをグッと握りしめた。そして抜き足差し足で、ソロソロベッドの方に近づいていった。  ベッドの上の人物は、死んだもののように動かない。  帆村は遂に意を決した。彼は呼吸《いき》をつめて身構えた。ピストルを左手にもちかえて、肘をピタリと腋の下につけた。そしてヤッという懸け声もろとも一躍してベッドに躍りかかり、白いシーツの懸った毛布をパッと跳ねのけた。そこに寝ているものは何者?  ピストルをピタリと差しつけたベッドの上の人物の顔? それは何者だったろう?  帆村の手から、ピストルがゴトリと下に滑り落ちた。 「おお——糸子さんだッ」    謎! 謎!  なんという思いがけなさであろう。  自分のベッドの上に長々と寝ている怪人物は何者だろう。それは気味の悪い屍体でもあろうかと、胸おどらせて夜具を剥いでみれば意外にも意外、麗人《れいじん》糸子の人形のような美しい寝顔が現われたのである。これは一体どうしたことであろう。  ベッドの上の糸子は死んでいるのではなかった。目覚めこそしないが、落ついた寝息をたててスヤスヤと睡っているのであった。その蝋《ろう》のように艶のある顔は、いくぶん青褪めてはいたけれど、形のいい弾力のある唇は、まるで薔薇の花片《はなびら》を置いたように紅《あか》かった。  帆村の魂は恐怖の谷からたちまち恍惚の野に浮き上り、夢を見る人のようにベッドの上の麗人の面にいつまでも吸いつけられていた。 「なぜだろう?」  帆村は、解けない謎のために、やっと正気に戻った。夢ではない、糸子が彼の部屋のベッドの上に寝ているのは厳然たる事実だ。厳然たる事実なれば、この大きい意外をもたらした事情はどういうのだろう。それを知らなければならない。  彼は帳場へ電話をかけようかと思って、それに手を懸けた。けれどそのとき不図《ふと》気がついて懐中《ふところ》を探った。  出て来たのは、一通の西洋封筒だった。さっき帳場で渡されてきた宛名も差出人の名前もない変な手紙だ。  彼はそっと封筒をナイフの刃で剥《は》がしてみた。その中からは新聞紙が出て来た。新聞紙を八等分したくらいの小さい形のものだった。  新聞紙が出て来たと見るより早く、帆村は蠅男の脅迫状を連想した。拡げて調べてみると、果然活字の上に、赤鉛筆で方々に丸がつけてある。これを拾って綴ってゆくと、文章になっていることが分った。 「ウム、やはり蠅男の仕業だな」  赤い丸のついた字を拾ってゆくと、次のような文句になった。 「——この事件カラただちに手をひケ、今日まデワ大メに見テやる、その証コに、イと子を安全に返シテやる、手を引カネバ、キサマもいと子も皆、いのちがナイものと覚悟セヨ、蠅男より、ほムラそう六へ——  果然、蠅男からの脅迫状だった。  帆村探偵に、この事件から手を引かせようという蠅男の魂胆だった。  帆村は、この新聞紙に赤丸印の脅迫状を読んでいるうちに、恐怖を感ずるどころかムラムラと癪《しゃく》にさわって来た。 「かよわい糸子さんを威《おど》かしの種に使おうなんて、卑怯千万な奴だ」  それにしても、糸子はどうしてこの部屋へ搬《はこ》ばれて来たのだろう。またその脅迫状はどうして帳場に届けられたのだろう。それが分れば、憎むべき蠅男の消息がかなりハッキリするに違いない。  帆村は電話を帳場にかけた。 「誰か僕の居ない留守に、この部屋に入ったろうか」  帳場では突然の帆村の質問の意味を解しかねていたが、やっとその意味を了解して返事をした。 「ハアけさ、お客さんが外出なさいまして、その後でボーイが室内をお片づけしただけでっせ。その外に、誰も一度も入れしまへん」 「ふうむ。ボーイ君の入ったのは何時かネ」 「そうだすな。ちょっとお待ち——」と暫く送話口をおさえた後で、「けさの午前十一時ごろだす。それに間違いおまへん」 「嘘をついてはいけない。その後にも、この部屋を開けたにちがいない。さもなければ鍵を誰かに貸したろう」 「いいえ滅相《めっそう》もない。鍵は一つしか出ていまへん。そしてボーイに使わせるんやっても、時間は厳格にやっとりまんが、ことに昼からこっちずっと、お部屋の鍵はこの帳場で番をしていましたさかい、部屋を開けるなどということはあらしまへん」  帳場の返事はすこぶる頑固なものであった。帆村はそれを聞いていて、これは決して帳場が知ったことではなく、そっちへは万事秘密で行われたものに違いないと悟った。  全く不思議なことだったが、何者かが帳場と同じような鍵を使って扉を開け、そしてそこに糸子を入れて逃げたのだった。  これももちろん蠅男の仕業にちがいない。一方において脅迫状を送り、そして他方において糸子を池谷別邸からこのベッドの上に送りこんだのに違いない。しかし蠅男は、一体どうして糸子を、ソッとこの部屋に送りこんだものだろうと帆村は考えた。 「モシモシお客さん。何か間違いでも起りましたやろか」  帳場では、訝《いぶか》しげに聞きかえした。 「うむ。——」帆村は唸ったが、このとき或ることに気がついて受話器をもちかえ、「そうだ。さっき帳場で貰った西洋封筒に入った手紙のことだが、あれは誰が持ってきたのかネ」 「あああの手紙だっか。あれは——」と帳場氏は言葉を切ってちょっと逡《ためら》った。 「さあ、それを云ってくれたまえ。誰があの手紙を持ってきたのだ」 「——そのことだすがな、お客さん。ちょっと妙なところがおまんね。実はナ、あの手紙は私が拾いに出ましてん」 「手紙を拾いに出たとは?」  帆村の眉がピクリと動いた。 「いえーな、それがつまり妙やなアとは思ってましたんですわ。詳しくお話せにゃ分ってもらえまへんが、あれは午後四時ごろやったと思いますが、この帳場へ電話が懸って来ましてん。懸ってみますと男の声でナ、いま玄関を出ると庭に西洋封筒を抛《ほう》りこんであるさかい、それを拾って帆村さんに渡しといて呉れ——と、こないに云うてだんネ。そして電話はすぐ切れました。なにを阿呆らしいと思うたんやけど、まあまあそんにして玄関の外に出ましたんや。するとどうだす、電話のとおりに、砂利の上にあの西洋封筒が落ちていますやないか。ハハア、こらやっぱり本当やと思って、それで拾って、お客さんにお届けしたというような次第だす」  帆村はそれを聞いて、たいへん興味を覚えた。ホテルの庭に置いた手紙を、拾ってくれと帳場に電話をかけたというのは、これは決して普通のやり方ではない。とにかくそれが事実にちがいないことは、封筒に附着していた泥を見てもしれる。それが本当だとすると、この奇妙な脅迫状の配達方法のなかに、なにか深い意味があるものと見なければならぬ。  さて、それは、いかなる深い意味をもっているか、帆村の頭脳は麗人糸子の身近くにあることを忘れて、愈々《いよいよ》冴えかえるのであった。彼はその秘密をどう解くであろうか。    怪しき泊り客  不思議な脅迫状の配達方法であった。 「ねえ君」と帆村は受話器をまだ放さないでいった。 「その電話の相手は、どこから懸けたのだか分ったかネ」 「いや、分りまへん」 「もしやこのホテル内から懸けたのではなかったかネ」 「いえ、そら違います。ホテルの中やったらもっともっと大きな声だすわ。そしてもっと癖のある音をたてますがな。ホテルの外から懸って来た電話に違いあらしまへん」 「ホテルの中から懸けた電話ではないというんだネ。フーム」帆村は首を左右にふった。それはひどく合点《がてん》が行かぬというしるしだった。  宛名なしの手紙をホテルの庭に抛りこんで置いて、そして間髪を入れず、外からその手紙を拾えと電話をかけてくることがそう安々と出来ることだろうか、一分違ってもその手紙は誰かに拾われるかもしれないんだ。そうすると必ず間違いが起るに極っている。しかも常に用意周到な蠅男である。彼がそんな冒険をする筈がない。帆村の直感では、蠅男はこのホテルの中にいて、窓からその手紙を庭へ抛げおとし、そしてホテル内の一室からすぐに帳場へ電話をかけたものだろうと思っていたのだ。しかし帳場では案に相違して、その電話はホテル外から懸ってきたんだという。折角の帆村の考えも、そこで全く崩れてしまうよりほかなかった。帆村はそこで一旦電話を切った。  糸子は、まだ何も知らずスヤスヤと睡っている。帆村はソッと近づいて、彼女の軟かな手首を握ってみた。 「ウム、静かな脈だ。心臓には異常がない。だがどう見ても、何か睡眠剤のようなものを嚥《の》まされているらしい」  なにゆえの睡眠剤だろう。  もちろんそれは、糸子をここへ搬びこむためにそうするのが便利だったというわけだろう。すると糸子たちが、このホテルに入ってくるのを誰か見た者がありそうなものだ。それを帳場へ行って聞き正したいと思った。  彼はすぐにも帳場の方へ下りてゆきたかったけれど、それは甚だ気懸りであった。この部屋には、糸子がひとりで睡っているのである。もし彼が室外に出て鍵をかけていったとしても、さっき煙のようにこの部屋に闖入した蠅男の一味は、えたりかしこしと帆村の留守中に再びこの部屋に押し入り、糸子に危害を加えるかもしれないのだ。これは迂濶《うかつ》に部屋を出られないぞと思った。  そうした心遣いが帆村の緻密な注意力を証拠だてるものであった。けれどその一面に彼がいつもの場合とはちがい、なぜかしら気の弱いところが見えるのも不思議なことであった。帆村は電話器をとりあげて、外線につないで貰った。そして彼は宝塚警察分署を呼びだした。彼はそこで事情を話し、すぐ二名の警官を特派してくれるように頼んで、電話を切った。警官は間もなくホテルにとびこんで来た。 「やあ帆村はん、なにごとが起りました」  と、向うから声をかけられたのを見ると、それはかねて見覚えのある住吉署の大男、大川巡査部長と、外《ほか》一名であった。帆村も奇遇に愕いて尋ねると、大川巡査部長は昨日辞令が出て、この宝塚分署の司法主任に栄転したということが分った。時も時、折も所、蠅男の跳梁《ちょうりょう》の真只中に誰を見ても疑いたくなるとき、最も信用してよい旧知の警官を迎えたことは、帆村にとってどんなに力強いことであったか分らなかった。  警官二人を部屋の中に入って貰って、糸子の保護を頼んだ上で、帆村は帳場へトコトコと下りていった。  帳場では大川主任の訪問をうけてから、すっかり恐縮しきっていた。そして帆村にありとあらゆる好意を示そうとするのだった。  帆村はさっきから考えていたところに従って、帳場に質問を発した。まず誰かホテルの者でこうこうした若い婦人を見かけたものはないかと訊いてみた。  帳場では、私どもは決して見かけなかったと返事をした。それからすぐ雇人たちを集めて、同じことを問いあわせて呉れた。しかし誰一人として、糸子に該当《がいとう》する婦人を見たものはないということだった。 「フーム、どうも可笑《おか》しいことだ」  帆村は強く首をふった。  誰にも見られないでこのホテルに忍びこむということができるだろうか。裏口や非常梯子のことを聞いてみたが、そこからも誰にも見とがめられないで入ることは出来ないことが分った。すると糸子は、煙のように入って来たことになる。そんな莫迦莫迦《ばかばか》しいことがあってたまるものではない。  そこで帆村は窮余《きゅうよ》の策として、宿帳を見せて貰った。目下の逗留客《とうりゅうきゃく》は、全部で十組であった。男が十三人に、女が六人だった。  次に彼は逗留客がホテルに入った時間を調べていった。  その中に彼は一人の男の客に注意力を移したのだった。 「井上一夫。三十三歳」  と、たどたどしい筆蹟で書いてある一人の男があった。住所は南洋パラオ島常盤街十一番地と別な筆蹟で書いてある。帆村が怪しんだのは、彼の井上氏が南洋から来たということではなかった。それはこの井上氏が本日の午後三時半に到着したというその時刻にあったのである。午後にホテルに入ったのはこの井上氏だけであった。  午後三時半といえば、彼が蠅男に三輪車を奪われてのちトボトボと有馬の町の駐在所へ転げこんだその時刻なのであった。もし蠅男があの場合、大胆にもすぐに宝塚へ引きかえしたとしたら、午後三時半にはゆっくりこのホテルに入れる筈である。なにしろ午後にホテルについた唯一の人物であるから、よく調べなければ承知できない。 「これはどんな風体《ふうてい》の客人ですか」  と、帆村は帳場にたずねた。 「そうですなア、とにかく顔の青い大きな色眼鏡をかけた人だす。風邪ひいとる云うてだしたが、引きずるようなブカブカの長いオーバーを着て、襟《えり》を立ててブルブル慄《ふる》えていました。そして黒革の手袋をはめたまま、井上一夫、三十三歳と左手で書っきょりました」  帆村は呻《うな》った。色眼鏡に長い外套、そして襟を立ててブルブル慄えている顔色の青い男だというのである。それはたしかに怪しい人物だ。 「なにか荷物を持っていなかった?」 「さよう、持っていましたな。大きなトランクだす。洋行する人が持って歩くあの重いやつでしたな。自動車から下ろすときも、ボーイたちを叱りつけて、ソッと三階へ持ってあがりましたがな」 「ほう、大きなトランク?」  帆村はハッと息をのんだ。 「そいつだ。そいつに違いない。その井上氏の部屋に案内して呉れたまえ」    蠅男の奇略《きりゃく》 「えッ、——」  と、帳場氏は、帆村の勢いに驚いて身をすさった。 「なにがそいつ[#「そいつ」に傍点]だんネ」 「そいつが恐るべき蠅男なんだ。僕にはすっかり分ってしまった。早くそいつ[#「そいつ」に傍点]の部屋へ案内したまえ」 「へえ、あの蠅、蠅男! あの殺人魔の蠅男だっか。ああそういわれると、どうも奇体な風体《ふうてい》をしとったな。気がつかんでもなかったんやけれど、まさかそれが蠅男だとは……」 「愕くのは後でもいい。さあ早くその井上一夫の部屋へ——」  帆村はジリジリして帳場氏の腕をつかんだ。  帳場氏はそれに気がついて、 「ああ、その人やったら、今はお留守だっせ」 「ナニ留守だッ。どうしたんだ、その男は」 「いえーな。ちょっと宝塚の新温泉へ行ってくるいうて出やはりました」 「それは何時だ」 「来て間もなくだっせ。ちょうどあの西洋封筒を拾ったすぐ後やったから、あれで午後の四時十分か十五分ごろだしたやろな」 「うーむ、そいつだ。いよいよ蠅男に極《きま》った。分ったぞ分ったぞ」 「あンさんにはよう分ってだすやろが、こっちには一向腑に落ちまへんが」 「いや、よく分っているのだ。僕の云うことに間違いはない。さあ早く、その井上氏の部屋へゆこう、部屋の鍵を持ちたまえ」  帆村は厳然たる自信をもって、帳場氏に命令するようにいった。そして彼は真先にたって、エレヴェーターのなかに躍りこんだ。帳場氏も、いまは帆村の言葉にしたがってついてゆくより外に仕方がなかった。  エレヴェーターを四階で停めて、帆村は大川主任のところへ行った。そして、一部始終を手短かに話し、主任の応援と命令とを乞うた。 「ええッ。蠅男がこのホテルに入りこんどる。それはほんまかいな。ほんまなら、こらえらいこっちゃ」  部長の顔色もサッと青褪め、すこぶる緊張した。  糸子の部屋には一人の警官を置いて、あとの三人は、急いで三階に駈け下りた。そして目ざす井上一夫の部屋第三三六室に近づいていった。  いざとなれば、たとい留守にしても、蠅男のいた部屋を開けるというのは、たいへん覚悟の要ることだった。三人はめいめいに腋《わき》の下から脂汗を流して、錠前の外れた扉に向って身がまえた。帆村はソッと扉を押した。  そして素早く手を中に入れて、電灯のスイッチ釦《ボタン》を押した。パッと室内灯がついた。  三人は先を争って、部屋の中を見た。 「ウム、あるぞ、トランクが……」  部屋のなかには、誰の姿も見えず、ただ大きなトランクだけがポツンと置き放されてあった。 「さあ、このトランクを開けてみましょう」  帆村は主任の許しをえて、持ってきた彼の秘蔵にかかる錠前外しでもって、鍵なしでドンドン錠を外していった。  錠前はすべて外《はず》れた。ものの二分と懸らぬうちに——  大川主任は唖然《あぜん》として、帆村の手つきに見惚《みと》れていた。 「さあ、トランクを開きますよ」  帆村はトランクの蓋に手をかけるなり、無造作にパッと開いた。「あッ、空っぽや」 「ウム、僕の思ったとおりだッ」大トランクの中は、果然《かぜん》空っぽであった。帆村は、そのトランクの中に頭をさし入れて、底板を綿密にとりしらべてみた。 「ああこんなものがある」  帆村はトランクのなかから、何物かを指先に摘みだした。  それは細いヘヤピンであった。彼はそれをソッと鼻の先へもっていった。 「ああピザンチノだ。南欧の菫草《すみれそう》からとれるという有名な高級香水の匂いだ、全く僕の思った通りだ。糸子さんはこの香水をつけている。するとこのトランクに糸子さんが入っていたと推定してもいいだろう。糸子さんはこのトランクのなかに入れられてこのホテルに搬びこまれたのだ」 「えッ、あの糸子はんが——へえ、そら愕いたなア」  大川主任と帳場氏は、互いの顔を見合わせて愕いたのであった。そこで帆村は、二人に対し、蠅男の演じた奇略《トリック》をひととおり説明した。前後の様子から考えると、蠅男は三輪車を奪ってから、大胆にもこの宝塚にひきかえしたのだった。そして彼は多分池谷別邸のなかに幽閉されていたろうと思われる糸子に麻酔剤を嗅がせた上、このトランクに入れ、それを自動車に積んで、彼は泊り客のような顔をしてこのホテルに入りこんだのだった。そして隙をみて、このトランクのなかから糸子を出し、合鍵で帆村の部屋を明けて、そのベッドの上に糸子を寝かせたというわけだった。その上かの蠅男は、脅迫状を作って、窓から庭に投げだし、直ちに帳場氏を電話口に呼び出して、それを拾わせたと説明した。そのとき帳場氏は、怪訝《けげん》な顔をしていった。 「そら妙やなア。あの電話が蠅男やったとすると、蠅男はホテルの外にいたことになりまっせ。なんでやいうたら、あの電話はホテルのなかから懸けたんやあれしまへんさかい。電話を懸けた蠅男と、この部屋に居った蠅男と、蠅男が二人も居るのんやろか」  帆村はそれを聞いて大きく肯《うなず》き、 「そのことなら、さっきやっとのことで謎を解いたんです。蠅男はホテルのなかに居るのを知られないために、電話にも奇略《トリック》をつかったんです」 「へえ、どんな奇略を——」 「それはホテルの交換台からすぐに帳場をつながないで、一旦部屋から外線につないで貰い、電話局から再び別の電話番号でこのホテルに懸け、一度交換台を経て帳場につないで貰ったんですなア。そうすれば、同じホテル内の部屋にかけたにしろ、電話局まで大廻りして来たから、電話の声がホテル内同士でかけるよりはずっと小さくなったんです。実に巧みな奇略だ」 「なるほどなア」と巡査部長は感心をしたが、 「しかし、なんでそんなややこしい事をしましたんやろ。糸子さんの胸の上にでも、その脅迫状をのせといたらええのになア」 「いやそれはつまり、今ホテルに蠅男が入っていることを知られたくはなかったんです。あくまで自分は井上一夫で、蠅男ではないという現場不在証明《アリバイ》を作って置きたかったんです」 「なるほどなるほど。それにしても蠅男ほどの大悪漢のくせに、小さいことをビクビクしてまんな」 「いやそこですよ」  といって帆村は二人の顔をジッと見た。 「蠅男は今にもう一度このホテルに帰ってくるつもりなんですよ。普通の泊り客らしい顔をしてネ」 「えッ、蠅男がもう一度ここへ帰ってくるというのでっか。さあ、そいつは——そいつは豪《えら》いこっちゃ。どないしまほ」  そのとき廊下をボーイが、急ぎ足でやって来た。 「ああ、いま帳場に電話が来とりまっせ。井上一夫はんいうお客さんからだす」井上一夫? ああ井上一夫といえば、蠅男の仮称である。蠅男はいまごろ何の用あってホテルに電話をかけてきたのだろうか。三人は恐怖のあまり言葉もなく、サッと顔色を変えた。    蠅男の声  井上一夫という偽名を使っている怪人蠅男が、ホテルへ電話をかけてきたというボーイの注進である。  帳場氏はもちろん真蒼に顔色をかえると、勇猛をもって鳴る大川司法主任も、空のトランクから手を放して、木製人形のように身体を硬直させた。ひとり帆村探偵は、咄嗟《とっさ》の間にも、この際どうすればいいかを知っていた。 「さあ君、帳場に来ている蠅男の電話を、早くその電話器につなぎかえたまえ」  と、この三三六号室の卓上電話器を指した。  帳場氏はオズオズと受話器に手をかけた。間もなく蠅男の声が、そのなかに流れこんできた。 「えッ、帆村さんだすか。へえ、居やはりま。いま代りますさかい。——」  帳場氏は帆村の方をむいて、蛇でも渡すかのように、受話器をさしだした。そして自分はうまく助かったとホッと大きな息をついた。  帆村は無造作《むぞうさ》に受話器をとった。しかし彼はそれを耳にもっていく前に、左手で鉛筆を出し、ポケットから出した紙片になにかスラスラと器用な左書きで文字をかきつけて、大川主任に手渡した。  大川はそれを受取って大急ぎで読み下した。そして無言のままおおきく肯《うなず》くと、そのまま部屋を出ていった。 「ハイハイ、お待ちどうさま。僕は帆村ですが、貴方はどなたさんですか」  すると向うで、作り声らしい太い声が聞えてきた。 「探偵の帆村荘六君だネ。こっちは蠅男だ」 「えッ、電話がすこし遠いのでよく聞えませんが、ハヤイトコどうするんですか」 「ハヤイトコではない、蠅男だッ」 「えッ、早床《はやとこ》さんですか。すると散髪屋ですね」  向うで呶鳴《どな》る声がした。  帆村は今日にかぎって、たいへんカン[#「カン」に傍点]がわるいらしい。 「ああそうですか、蠅男だとおっしゃるんですな、あの今大阪市中に大人気の怪人物の蠅男でいらっしゃるわけですか。ちょっと伺いますが、本当の蠅男さんですか。まさか蠅男の人気を羨《うらや》んで、蠅男を装っているてえわけじゃありますまいネ」  電話器の向うでは、せせら嗤《わら》う声が聞えた。帆村はソッと腕時計を見た。話をはじめてから、まだ四十秒! 「オイ帆村君。君は美しい令嬢糸子さんと、俺の手紙とをたしかに受取ったろうネ」 「ええどっちとも、確かに」 「ではあのとおりだぞ。貴様はすぐにこの事件から手を引くんだ。俺を探偵したり、俺と張り合おうと思っても駄目だからよせ。糸子さんは美しい。そして貴様が約束を守れば、俺はけっして糸子さんに手をかけない。いいか分ったろうな」 「仰有《おっしゃ》ることはよく分りましたよ、蠅男さん。しかし貴下は人殺しの罪を犯したんですよ。早く自首をなさい。自首をなされば、僕は安心をしますがネ」 「自首? ハッハッハッ。誰が自首なんかするものか。——とにかく下手《へた》に手を出すと、きっと後悔しなければならないぞ」 「貴方も注意なさい。警察では、どうしても貴方をつかまえて絞首台へ送るんだといっていますよ」 「俺をつかまえる? ヘン、莫迦にするな。蠅男は絶対につかまらん。俺は警察の奴輩《やつばら》に一泡ふかせてやるつもりだ。そして俺をつかまえることを断念させてやるんだ」 「ほう、一泡ふかせるんですって。すると貴方はまだ人を殺すつもりなんですね」 「そうだ、見ていろ、今夜また素晴らしい殺人事件が起って、警察の者どもは腰をぬかすんだ。誰が殺されるか。それが貴様に分れば、いよいよ本当に手を引く気になるだろう」 「一体これから殺されるのは誰なんです」 「莫迦《ばか》! そんなことは殺される人間だけが知ってりゃいいんだ」 「ええッ。——」 「そうだ、帆村君に一言いいたいという女がいるんだ。電話を代るからちょっと待っとれ」 「な、なんですって。女の方から用があるというんですか——」  帆村はあまりの意外に、強く聞きかえした。そのとき電話口に、蠅男に代って一人の女が現われた。 「ねえ、帆村さん」 「貴女《あなた》は誰です。名前をいって下さい」 「名前なんか、どうでもいいわ。けさからあたしたちをつけたりしてさ。早く宝塚から……」  とまで女がいったとき、帆村は向うの電話器のそばで、突然蠅男の叫ぶ声を耳にした。 「——し、失敗《しま》ったッ。オイお竜《りゅう》、警官の自動車だッ」 「えッ、——」  ガラガラと、ひどい雑音が聞えてきた。怪しき女は受話器をその場に抛《ほう》りだしたものらしい。なんだか戸が閉まるらしく、バタンバタンという音が聞えた。それに続いて、ドドドドッという激しい銃声が遠くに聞えた。 「あ、機関銃だ!」  帆村は愕然《がくぜん》として叫んだ。    醒《さ》めたる麗人《れいじん》  電話が切れて、不気味な機関銃の音も聞えなくなった。しかし帆村の耳底には、微《かす》かながらも確かに聞いた機関銃の響きがいつまでもハッキリ残っていた。  機関銃の響きを聞いて、帆村が愕然《がくぜん》とするのも無理ではなかった。  忘れもせぬ十二月二日、鴨下ドクトルの留守邸に、焼ける白骨屍体を発見したあの日、何者かの射つ機関銃のために、彼帆村は肩に貫通銃創《かんつうじゅうそう》をうけたではないか。だから機関銃と聞けば、ために全身の血が俄《にわ》かに逆流するのもことわりだった。  あの機関銃は、一体どっちが撃ったのであろうか。  警官隊であろうはずがない。  すると、機関銃はたしかに蠅男と名乗る電話の人物がぶっ放したものとなる。  機関銃と蠅男! 「うむ、やっぱりそうだったか」  帆村は呻《うな》るように云った。  鴨下ドクトル邸に於て、彼を機関銃で撃ったのは、紛《まぎ》れもなく蠅男だったにちがいない。蠅男はあの日、ドクトル邸の二階に隠れていて、そこへ上ってきた彼を撃ったのにちがいない。 「そうか。——すると蠅男と僕とは、すでに事件の最初から血|腥《なまぐさ》い戦端をひらいていたんだ。そういうこととは今の今まで知らなかった。うぬ蠅男め、いまに太い鉄の棒をはめた檻《おり》のなかに入れてやるぞ」  帆村は切歯扼腕《せっしやくわん》して口惜しがった。  凶暴な機関銃手があの蠅男だということに決まれば、彼は事件をもう一度始めから考え直さねばならないと思った。  それから今の電話によって、もう一つ新しく知った事実があった。それは蠅男がいつも一人で居るのかと思ったのに、今の電話で、蠅男には連れの人物があることが分った。  それは年若い女性だった。 (し、失敗《しま》ったッ。オイお竜《りゅう》!)  たしかにお竜——と蠅男は呼んだ。  そのお竜のことであるが、彼女は何か帆村に云いたがって電話に懸ったが、僅か数語しか喋らないうちに、蠅男が警官隊の襲来を知らせたので、話はそのままに切れた。  だがその短い数語によって、彼女は何者かということがハッキリ分ったような気もする。 (けさから、宝塚であたしたちをつけて……)  といったが、今朝から宝塚でつけた女といえば、あの池谷医師の連れの女の外ないのである。あれがお竜にちがいない。丸顔の背のすらりとした美人であった。年齢のころは、見たところ二十四か五といったところだったが、たいへん仇《あだ》っぽいところから、或いはもっと年増なのかも知れない。  その怪しの美人お竜は、池谷医師と連れだって、新温泉の娯楽室のなかで一銭活動写真のフィルム「人造犬」の一巻を購《あがな》い、それからまた肩をならべて林の向うの池谷邸に入っていったのである。それっきり、二人の姿は邸内にも発見されなかった。一体二人はどこへ行ったのだろう。  ところがひとりお竜だけは、電話の声に過ぎないとはいえ、再び帆村の前に現われたのである。しかも蠅男の連れとして彼の前に関係を明らかにしたのである。一方、池谷医師はどうしたであろうか。いまごろは彼の別邸か医院に姿を現わしているであろうか。  池谷医師は、あのお竜とどういう関係なのであろう。お竜があの恐ろしい蠅男の一味だということを知っているのであろうか。もし知っていれば、あんな女と肩を並べて歩くはずがない。考えてゆくと全く不思議な謎であった。  とにかく池谷医師の所在を、もう一度丁寧に調べる必要がある。大川司法主任と相談して調べることにしよう。そういえば、大川は下へ下りていったきり、なかなか帰ってこないが、なにをしているのであろう。  帆村が不審を起しているところへ、当の大川主任は佩剣《はいけん》を握ってトントンと飛びこんできた。 「大川さん。どうです、分った?」 「分った。——」  主任は、苦しそうに喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ応えた。 「どう分ったんです?」 「天王寺《てんのうじ》の新世界のわきだす」 「え、新世界のそば?」 「はア、そや。天王寺公園南口の停留場の前に、一つ公衆電話がおまんね。その中に、蠅男が入りよったんや。あんさんの命令どおり、すぐ電話局へかけてみて、あんさんの話し相手が今どこから電話をかけているか調べてもろうてな、それから直ぐ署の方へ連絡しましたんや。蠅男が今これこれのところから電話を懸けているねン、はよ手配たのみまっせいうたら、署長さんが愕《おどろ》いてしもうて、へえ蠅男いう奴はやっぱり人間の声だして話しているかと問いかえしよるんや。——しかしすぐ手配するいうとりました」  帆村はうちうなずいて、主任に今しがた電話を通じて警官隊が現場に到着したらしい騒ぎを耳にしたことや、蠅男が女を連れていて、機関銃をもって抵抗し、そのうちにどこかに行ってしまったことを話した。大川主任は、なるほど、ほうほう、さよかいなを連発しながら、帆村の機智によるこの蠅男追跡談にいとも熱心に耳を傾けた。  丁度そのとき、部長の連れてきた一人の警官が、部屋に入ってきた。 「部長さん、あの娘がどうやら目が覚めたらしゅうおまっせ」  その警官は、蠅男の手によってこのホテルの帆村の借りている部屋に寝かされていた故玉屋総一郎の一人娘糸子を保護していたのだった。糸子は睡眠薬らしいものを盛られて、トランクのなかからズッと睡りつづけていたのだが、今やっと覚めたものらしい。  帆村はそれを聞くと、すぐに糸子のところへ駈けつけた。 「どうしました、糸子さん」  糸子はベッドに寝たまま、乱れた髪をすんなりとした指さきでかきあげていたが、思いがけない帆村の姿をみてハッとしたらしく、みるみる頬を真赤に染めて、 「まあ帆村さん、うち[#「うち」に傍点]どないして、こんなところへ来ましたんやろ。ここ、どこですの」  と、床の上に起きあがろうとしたが、呀《あ》っと小さい声をたてて、また床の上にたおれた。 「——目がまわって、かなわん」  帆村はつとよって、糸子の腕をとり、そして脈を見た。脈はすこし早かった。  心臓がよわっているようだ。 「糸子さん、静かにしていらっしゃい。こんどはもう大丈夫、十分信頼していい警官の方が保護して下さっていますから、何も考えないで、今夜はここで泊っていらっしゃい。ばあやさんか誰か呼んであげましょうか」 「そんなら、家へ電話かけてお松をよんで頂戴」 「医者も呼んであげましょう」 「いいえ、お医者はんはもう結構だす。すぐなおりますさかい、お医者さんはいりまへん。池谷さんにも、うちのこと知らせたらあきまへんし」  糸子はひどく医者を恐怖していた。もちろん池谷医師に対する不信のせいであろうと思われるが。  帆村と大川主任とは、糸子をいろいろと慰めてから、その部屋を出た。そして廊下に出て、たがいに顔を見合わせた。 「糸子はんのことは、首にかけて引受けまっさ。どうぞ安心しとくなはれ」  と大川主任は強く自信ありげな言葉でいった。 「じゃ、貴官にくれぐれもお頼みしますよ」  そういって帆村は、主任の手をギュッと握った。部長は帆村の心の中の秘めごとも知らず、ただ感激して帆村の手を強く握りかえした。    蠅男|包囲陣《ほういじん》  帆村は天王寺公園のところで、夜の非常警戒線にひっかかった。彼は後事を大川主任に頼み、宝塚のホテルから自動車をとばして住吉署に向う途中だったのだ。住吉署に行ってから、先刻《さっき》の彼が一役買った蠅男捕物の話も聞いたり、それから久方ぶりで帰邸したという奇人館の主人鴨下ドクトルにも会ってみるつもりだった。ところが公園の近くまで来ると、非常警戒線だという騒ぎである。  帆村探偵は車を下りて、頤紐《あごひも》をかけた警官に、住吉署の正木署長が来ていないかと尋ねた。 「ああ正木さんなら、公園南口の公衆電話のそばに、うちの署長と一緒に居やはるはずだっせ。そこに警戒本部が出張してきとりますのや」  うちの署長というのは、戎署《えびすしょ》のことをいうのであろう。天王寺公園や新世界は、この戎署の管轄だった。  帆村探偵は警戒線のなかに入れて貰って、市電のレール添いに公園南口の方へ歩いていった。行くほどになるほど公衆電話の函が見えてきた。さっきホテルから蠅男と話をしたとき、怪人物蠅男はあの電話函のなかに入っていたんだ。美人お竜も、あの函の前であたりに気を配っていたのかも知れない。近づくに従って、一隊の警察官が停留場の前に佇立《ちょりつ》しているのを認めた。丁度|誰何《すいか》した警官があったのを幸い、彼を案内に頼んで、その一行に近づいた。  なるほど正木署長もいた。帆村と親しい村松検事もいた。戎署長の真赤な童顔も交っていた。  正木署長は手をあげて帆村をよんだ。 「やあ皆さん。蠅男が電話をかけているのを知らせてくれた殊勲者、帆村探偵が来られましたぜ。その方だす」  旧知も新知も帆村の方をむいてその殊勲をねぎらった。 「署長さん。蠅男はどうしました」 「さてその蠅男やが、折角《せっかく》知らせてくれはったあんたにはどうも云いにくい話やが——実は蠅男をとり逃がしてしもうたんや」 「はア、逃げましたか」 「逃げたというても、逃げこんだところが分ってるよって、いま見てのとおり新世界と公園とをグルッと取巻いて警戒線をつくっとるのやが——」 「ああなるほど、そのための非常警戒ですか。女の方はどうしました、あのお竜とかいう……」 「ああ、あれも一緒に、そこの軍艦町《ぐんかんまち》に逃げこんでしもて、あと行方知れずや」 「え、軍艦町?」 「はア、軍艦町には、狭い関東煮やが沢山並んでて、どの店にも女の子が三味線をひいとる、えろう賑やかな横丁や。そこへ逃げこんだが最後、どこへ行ったかわかれへん」 「じゃあ、どっちも捕える見込み薄ですね」 「しかし儂《わし》の考えでは、二人ともまだこの一画のなかにひそんどる。それは確かや。この一画ぐらい隠れやすいところはないんや。そしていずれ隙を見て、チョロチョロと逃げ出すつもりやと睨《にら》んどる。もっと待たんと、ハッキリしたところが分れしまへんな」  そこへ一人の警官が、伝令と見えて、向うからかけて来た。 「いま向いの動物園の中で妙な洋服男がウロウロしとるのを見つけました。こっちへ出てくる風でおます。それとなく警戒しとります」  動物園というのは、公園南口停留場のすぐ向いにあった。この寒い夜中に、動物園のなかをうろついているというのはいかさま変な話だった。  そのとき村松検事が、例の病人のような骨ばった顔をこっちへ近づけてきた。 「オイ帆村君。なにか面白い話でも聞かさんか。儂は至極退屈しているんだ」  検事は浮かぬ顔をしていた。折角の捕物がうまくいかないので、腐っているらしい。 「面白い話は、こっちから伺いたいくらいですよ。蠅男がアメリカのギャングのように機関銃を小脇にかかえてダダダッとやったときの光景はいかがでした」 「ウン、なかなか勇壮なものだったそうだ。味方はたちまち蜘蛛の子を散らすように四散して、電柱のかげや共同便所のうしろを利用してしまったというわけさ」 「検事さんのお口にかかっては、こっちは皆シャッポや」と署長は苦笑いをした。「それよりも帆村はん、豪《えら》い妙な話がおますのや。それは蠅男の機関銃のことだすがナ、その機関銃の銃身《じゅうしん》がこっちには皆目見えへなんだちゅうのだす」 「え、もう一度いって下さい」 「つまり、蠅男は機関銃を鳴らしとるのに違いないのに、その肝腎《かんじん》の銃身がどこにも見えしまへんねん」 「それはおかしな話ですね。蠅男はどんな風に構《かま》えていたんですか」 「ただこういう風に」と署長は左腕を水平に真直に前につきだしてみせ、「左腕を前につきだして立っとるだけやったいう話だす。手にはなんにも持っとらしまへんねん。透明機関銃やないかという者も居りまっせ」 「透明機関銃? まさか、そんなのがあろう筈がない。何か見ちがえではないのですか」 「いや、蠅男に向うた誰もが、云いあわしたようにそういいよったんで……」 「フーム」  帆村はその奇怪な話を聞いて、狐に鼻をつままれたような気がした。 「そうそう、そういえば先刻の蠅男の電話では、蠅男は今夜のうちにまた誰かを殺すといっていましたよ」 「なに今夜のうちに、また殺すって」  検事が愕いて聞きかえした。 「ほんまかいな——」  正木署長は恐怖のあまりしばらくは口も利けなかったほどだった。 「誰か蠅男から脅迫状をうけとった者はないのですか」  検事と署長とは、思わず不安げな顔を見合わせた。    奇行《きこう》ドクトルの出現 「誰だろう、こんどの犠牲は?」 「さあ、蠅男から死の脅迫状をうけとったいう訴えはどこからも来てえしまへんぜ」 「フーム、変だな」  検事と署長とは、強く首をふった。 「なんだ。誰が殺されるか、まだ分っていないのですか」  帆村も唖然《あぜん》とした。蠅男は電話でもってたしかに殺人を宣言したのだった。そしてその殺人は、満都を震駭《しんがい》させるほど残虐をきわめたものであるらしいことは、蠅男の口ぶりで察せられた。あの見栄坊の蠅男が、それほどの大犯罪をやろうとしながら、相手に警告状を出さない筈はないと思われる。  そもこの戦慄《せんりつ》すべき犠牲者は、何処の誰なのであろうか。 「来た来た、あれだッ」  と、そのとき叫ぶ者があった。  帆村はハッとしてその方を向いた。  動物園の入口から、一人の老紳士が警官に護られながらこっちへ歩いてくるのが見えた。それは、さっき伝令の警官から報告のあったように、夜の動物園のなかにうろついていた疑問の人物であろう。  老紳士はすこし猫背の太った身体の持ち主だった。頭の上にチョコンと小さい中折帽子をいただき、ヨチヨチと歩いてくる。そして毛ぶかい頤鬚《あごひげ》や口髭《くちひげ》をブルブルふるわせながら、低声《こごえ》の皺がれ声で何かブツブツいっていた。どうやら警官の取扱いに憤慨しているらしかった。 「……どうもお前らは分らず屋ばかりじゃのう。早く分る男を出せ。天下に名高い儂《わし》を知らないとは情けないやつじゃ」  と、老紳士はプンプンしていた。 「おお、あれは鴨下《かもした》ドクトルじゃないか」  と正木署長は、意外の面持《おももち》だった。 「儂を知らんか、知っとる奴が居るはずやぞ。もっと豪《えら》い人間を出せ」 「おお鴨下ドクトル!」 「おお儂の名を呼んだな。——呼んだのはお前じゃな。うむ、これは署長じゃ。この間会って知っている。お前は感心じゃが、お前の部下は実に没常識ぞろいじゃぞ。儂のことを蠅男と呼ばわりおったッ」  老紳士は果然《かぜん》鴨下ドクトルだったのだ。ドクトルはなおも口をモガモガさせて、黒革の手袋をはめた手に握った細い洋杖《ステッキ》をふりあげて、いまいましそうにうちふった。  正木署長はドクトルに事情を話して諒解《りょうかい》を乞うた上で、なおドクトルが夜の動物園で何をしていたのかを鄭重《ていちょう》に質問した。 「なにをしようと、儂の勝手じゃ。儂の研究の話をしたって、お前たちに分るものか」 「それでもドクトル、一応お話下さらないとかえってお為になりませんよ」 「ナニ為にならん。お前は脅迫するか。儂は云わん、知りたければ塩田律之進《しおたりつのしん》に聞け」 「えッ、塩田律之進というと、アノ鬼検事といわれた元の検事正《けんじせい》塩田先生のことですか」  村松検事が愕いて横合いから出てきた。 「そうじゃ、塩田といえば彼奴《あいつ》にきまっとる。あれは儂の昔からの友人じゃ」とドクトルはジロリと一同を見まわし、 「それに儂《わし》は塩田と約束して、これから堂島《どうじま》の法曹クラブに訪ねてゆくことになっとる。心配な奴は、儂について来い。しかし邪魔にならぬようについて来ないと、遠慮なく呶鳴りつけるぞ」  あの有名な塩田先生の友人と聞いては、検事も署長も、大タジタジの体であった。なかにも村松検事は、塩田先生の門下の俊才として知られていた。それで彼は、この上、先生の友人である鴨下ドクトルを警官たちが怒らせることを心配して、 「じゃあドクトル、塩田先生にはしばらく御無沙汰していましたので、これから一緒にお伴をしてもいいのですかネ」 「なんじゃ、貴公がついて来るというのか。ついて来たけりゃついてくるがいい。しかし今もいうとおり、邪魔にならぬようにしないと、この洋杖でなぐりつけるぞ」  奇人館の主人は、なるほど奇人じみていた。検事はそれをうまくあしらいながら、署長たちに断りをいって、ドクトルのお伴をすることになった。堤《どて》のところに待っていた一台の警察の紋のついた自動車がよばれ、それにドクトルと検事は乗りこんで、出かけていった。  帆村は、はじめて見た鴨下ドクトルの去ったあとを見送りながら、 「フーム、実に興味|津々《しんしん》たる人物だ」  と歎息《たんそく》した。  そして正木署長の方を向いて、鴨下ドクトルが帰館して、あの暖炉《だんろ》のなかの屍体のことをどういったか、それからまたドクトルは何処に行っていたのかなどという予《かね》て彼の知りたいと思っていたことを訊《き》いてみた。  それに対して署長は苦笑《にがわら》いをしながら、イヤどうも万事あの調子なので、訊問《じんもん》に手古《てこ》ずったがと前置きして、次のように説明した。  すなわちドクトルは、急に思いたって東京に行っていたのだそうである。そして十二月一日から五日まで、上野の科学博物館へ日参して博物の標本をたんねんに見てきたそうである。宿は下谷区《したやく》初音町《はつねちょう》の知人の家に泊っていたという。  それから暖炉のなかの屍体は、一向心あたりがないという。これはお前たちの警戒が下手くそのせいだとプンプン怒っていたとのことである。  ドクトルのいったことが正に本当かどうか、それは上申して目下取調べを警視庁に依頼してあるということだった。  帆村は早くその報告が知りたいものだと思った。しかしまだ二、三日は懸るのであろう。 「それから正木さん。ドクトルの娘のカオルさんたちはどうしました。いまの話では行き違いになったらしいが、今どこにいるのですか」 「ああそのことや。実はドクトルからも尋ねられたことやけれど、娘はんとあの上原山治という許婚《いいなずけ》は、ドクトルが居らへんもんやさかい、こっちへ来たついでやいうて、いま九州の方かどっかへ旅行に出とるのんや。帰りにきっと本署へ寄るという約束をしたんやさかい、そのうち寄るやろ思うてるねん」 「ほほう、そうですか」    大戦慄《だいせんりつ》  非常警戒の夜は、張り合いのないほど静かに更《ふ》けていった。蠅男はどこにひそんでいるのか、コトリとも音をたてない。ドクトルの騒ぎが、最後の活気であるかのように思われた。  この調子なら、蠅男もこの一画に閉じこめられたまま、あの殺人宣言はむなしく空文《くうぶん》に終ってしまうことかと思われた。  正木署長が呼ばれて、交番の方へ歩いていった。  しばらくして、署長はトコトコと元の位置へ帰ってきた。 「どうかしましたかネ」  帆村は退屈さも半分手つだって、署長に声をかけた。 「いや、行きちがいの話だんね」 「ははァ、行きちがいの話ですか。じゃあそこまで行ってどうも御苦労さまというわけですか」 「まあそんなものや。つまり村松検事さんのところへ、塩田先生からの速達が来たという話やねん。今夜十時までに、堂島さんの法曹クラブに訪ねてきてくれというハガキや」 「村松さんはもう行ったじゃないですか」 「そうや。そやさかい、行きちがいや云うとるねん」 「しかし速達はギリギリに着いたですね。もうかれこれ九時ですよ」  二人の会話は、そこでまたもや杜切《とぎ》れてしまった。帆村は次第につのり来る寒さに、外套の襟を深々とたて、あとは黙々として更けてゆく夜の音に、ただジッと耳を澄ましたのだった。  おお蠅男は、どこに潜《ひそ》んでいる?  こうして頤紐《あごひも》をかけた大勢の警官隊でもって、大阪きっての歓楽の巷である新世界と大阪一の天王寺公園とを冬の陣のようにとりかこんでいるが、蠅男とお竜とはもういつの間にか、この囲みをぬけてどこかへ逃げてしまったのではないか。  全く神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の怪漢蠅男のことだから、容易に捕る筈がない。しかもこの界隈《かいわい》は、人間の多いこと、抜け裏の多いことで大阪一の隠れ場所だ。いまに活動や芝居がはねて、群衆が新世界からドッと流れだしたときには、警官隊はどうしてその夥《おびただ》しい人間の首実検をするのであろうか。恐らく蠅男は、その閉場《はね》の時刻を待っているのであろう。  怪漢蠅男ほど頭の働く悪人は聞いたことがない。彼奴はすこぶるの知恵者であり、そして云ったことを必ず実行する人間であり、そして人一倍の見栄坊だ。彼はどうしても今夜のうちに、異常なセンセイションをひき起す殺人を実演してみせるに違いない。だからこの一画のなかに縮こまっているなんて、そんな筈がないのだ。  その蠅男と、彼帆村とは、きょうはじめて口を利きあった。それは電話でのことであったが、特筆大書すべき出来ごとだった。  糸子をかえしてよこして、彼に探偵を断念しろというところなんか、実に凄い脅迫である。彼は今、やっぱり探偵根性をもって、蠅男のあとを嗅ぎまわっているが、これが蠅男に知れずにはいまい。そのときこそ、彼は一大決心を固めなければならない。蠅男の知恵には、さすがの彼も全く一歩どころか数歩をゆずらなければならない。  こうしているうちにも、蠅男は誰かの胸もとに鋭い刃をジリジリと近づけつつあるのではあるまいか。殺人宣告書は誰がもっているのか分らないが、一体誰が殺される役まわりになっているのだろうか。  そのとき帆村は、まっさきに心配になるものを思いだした。彼は急に機械のまわりだした人形のように、トコトコ歩きだした。  彼は交番へ入った。そして電話で、宝塚のホテルに詰めている大川司法主任をよんでもらうように頼んだ。 「モシモシ、こっちは大川だす。なんの用だすかいな」  帆村はその声を聞いて、胸を躍らせた。彼はその後の蠅男の事情を報告して、もしや糸子のところに死の宣告書が来ていないかを尋ねた。 「それは大丈夫だす。そんなものは決して来てえしまへん。安心しなはれ」  大川主任はキッパリ答えた。  帆村は安心をして電話を切ったが、しかしまた新たなる心配が湧き上ってきた。 「誰かが、死の宣告書をつきつけられているのに違いない。その人は何かの理由があって、そのことを警察に云ってこないのではないか。早く云ってくれば助けられるかも知れないのに……」  そんなことを考えつづけているときだった。霞町《かすみちょう》の角を曲って、こっちへ進んで来た自動車が、ピタリと停った。  誰だろうと見ると、なかからヒョイと顔を出したのは余人ならず鴨下ドクトルの鬚面であった。 「正木さん、オイ正木さんは居らんか」  ドクトルは住吉署長の名をしきりと呼んだ。  なにごとだろうと、正木署長は自動車のところへ駆けつけた。 「おお正木さん。ねえ、冗談じゃないよ。君たち、こんなところで非常警戒していても何にもならせんよ。蠅男はすでにさっき現われて、儂の大切な友人を殺し居ったぞ」 「えッ、蠅男が現われたと……」  誰も彼もサッと顔色をかえた。 「誰が殺されたんです」  帆村が反問した。 「殺された者か。それは儂の友人、塩田律之進じゃ。それはまだいいとして、殺したのは誰じゃと思う」 「蠅男ではないんですか」 「あれが蠅男なんだろうな」ドクトルは小首を傾け、 「とにかく捕ったその蠅男は、さっき儂と一緒の車に乗っていた村松という検事なんじゃ」 「ええッ、村松検事が……」 「塩田先生を殺したというのですか」 「そして検事が蠅男だとは、まさか……」  一同はあまりのことに腰を抜かさんばかりに愕いた。村松検事があの恐るべき蠅男だったとは、誰が信じようか。しかしドクトルの言葉は、出鱈目を云っているとは思われない。どこかに間違いがあるのであろう。一体どこが間違っているのか?  間違っていないことは、帆村にいったとおり、それが誰にもせよ「蠅男」が今夜もキッパリ人を殺したということ!    法曹クラブの殺人  村松検事は、果して恐るべき殺人魔「蠅男」なのであろうか?  検事を信ずることの篤《あつ》い帆村探偵は、誰が何といおうと、それが間違いであることを信じていた。しかし何ごとも証拠次第で決まる世の中だった。元の鬼検事正、塩田先生の殺害現場を調べた検察官はまことに遺憾にたえないことだったけれど、村松検事を殺人容疑者として逮捕するしかないのっぴき[#「のっぴき」に傍点]ならぬ証拠を握っていたのであった。  そのときの報告書に記された殺人|顛末《てんまつ》は、次のような次第であった。  場所は、大阪の丸の内街と称せられる堂島に、最近建てられた六階建のビルディングで、名づけて法曹クラブ・ビルというところだった。  当夜午後九時をすこし廻ったとき、人造大理石の柱も美々しいビルの玄関に、一台の自動車が停った。そして中から降りて来たのは一人の鬚の深い老人と、もう一人は黒い服を着た顔色の青白い中年の紳士だった。この老人は、云わずとしれた鴨下ドクトルだったし、黒服の中年紳士は村松検事であった。  二人はボーイに来意をつげた。  ボーイは早速電話でもって、塩田先生に貸してある小室へ電話をかけた。すると塩田先生が電話口に現われて、 「おおそうか。鴨下ドクトルに、村松も一緒について来たのか。たしかに二人連れなんだネ」 「左様でございます」  とボーイは返事をした。  すると塩田先生は、何思ったか急に言葉を改めて、ボーイに云うには、 「実は、これは客に知れては困るので、君だけが心得て、ソッと知らせて貰いたいんだが……」、と前提して、「その村松という客の前額に、斜めになった一寸ほどの薄い傷痕がついているだろうか。ハイかイイエか、簡単に応えてくれんか」  ボーイはこの奇妙な質問に愕いたが、云われたとおり村松氏の額《ひたい》を見ると、なるほど薄い傷痕が一つついていた。 「ハイ、そのとおりでございます」 「おおそうかい」と、塩田先生は安心したような声を出して、「では丁寧に、こっちへお通ししてくれんか」  二人の客は、そこで帽子とオーバーとを預けて、エレヴェーターの方に歩いていったが、そのときドクトルは横腹をおさえて顔を顰《しか》め、ボーイに手洗所の在所《ありか》を聞いた。  そこでボーイが一隅を指《ゆびさ》すと、ドクトルは村松氏に先へ行くようにと挨拶して、アタフタと手洗所の中へ入っていった。  ボーイは村松氏だけを案内して、六階にある塩田先生の貸切り室へ連れていった。扉をノックすると、塩田先生が自ら入口を開いて、村松氏を招じ入れた。鴨下ドクトルは今手洗所に入っているから、間もなく来るであろうと村松氏が云えば、先生は大きく肯《うなず》き、そうかそうかといって、急いで村松氏の手をとり、室内へ入れ、扉をピタリと閉じた。  ボーイは、手洗所から鴨下ドクトルが出て来ない前に、階下へ下りていなければならぬと思ったので、エレヴェーターを呼んで、スーッと下に下りていった。  約七、八分の間であったと、ボーイは後に証言した。ボーイが、手洗所から出てきた鴨下ドクトルを案内して、再び塩田先生の室の前に立ったまでの時の歩みを後から思い出してみると、——  その七、八分という短い時間のうちに、塩田先生の室には大変なことが起っていたのだった。それとも知らぬボーイは、室の扉をコンコンとノックした。  しかるに、室のなかからは、何の返事もない。聞えないのかと思って、もう一度、すこし高い音をたててノックしたが、やはり返事がない。 「オイ、どうしたんじゃ。お前は部屋を間違えとるんじゃないか。しっかりせい」  と、気短かの鴨下ドクトルは、ボーイを呶鳴りつけた。  ボーイは、そういわれて、室番号を見直したが、たしかに間違いない。室内には、電灯が煌々《こうこう》とついている。六階で電灯のついているのは、そんなに沢山あるわけではない。どうしてもこの室なのに、塩田先生と村松氏は、一体中で何をしているのだろう。  ボーイは把手《ノッブ》をつかんで、押してみた。  だが、扉はビクともしない。内側から鍵がかかっているのだった。 「変だなア。モシモシ、お客さん——」  と、ボーイは大声で呶鳴りながら、扉を激しく叩いた。  すると、扉のうちで、おうと微《かす》かに返事をする者があった。  ボーイはホッとして、鴨下ドクトルの顔を見上げた。ドクトルは鬚だらけの顔のなかから、ニヤニヤと笑っていた。  やがて扉の向うで、鍵の廻る音が聞えた。そして扉がギーッと内に開いて、顔を出したのは村松検事だった。だが彼の顔は、血の気を失って、まるで死人のように真青であった。  検事は、ブルブル慄《ふる》う指先で室内を指し、 「殺人事件がおこったんだ。ボーイ君。そこらにいる人を大声で呼びあつめるんだ。それから、鴨下ドクトル。すみませんが、どこかそこらの室から電話をかけて、警察へ知らせてくださらんか」  村松は、やっとそれだけのことを云った。ボーイは、扉ごしにチラリと室内を見やった。絨毯《じゅうたん》の上に、大きな人間の身体が血まみれになって倒れているのが明るい電灯の下によく見えた。彼はドキンとして、腹の中から自然に声がとび出した。 「おう、人殺しだッ。皆さん早く来て下さいッ」    引かれゆく殺人検事?  電話で知らせたので、警察からは係官が宙をとんで駈けつけた。  惨劇の室内に入ってみると、そうも広くないこの室は、なまぐさい血の香で噎《むせ》ぶようであった。  塩田先生は、脳天をうち砕かれ、上半身を朱に染めて死んでいた。これが曾《かつ》て、鬼検事正といわれ京浜地方の住民から畏敬されていた塩田律之進の姿なのであろうか。それはあまりにも悲惨な最期だった。  係官の取調べが始まった。  塩田先生が殺害された当時、この室のうちに誰がいたか。  それは外でもない。村松検事只一人だったことを証明する者が沢山居た。  ボーイも証言した。鴨下ドクトルも、もちろん同意した。階下の事務所にいて、塩田先生のところへ電話をかけたボーイ長もそれを否定しなかった。鴨下ドクトルが手洗所に入り手洗所から出てくるのをみていた、女事務員たちの中にも、それに異議をいう者がなかった。 「どうです、村松さん。これについて何か云いたいことがありますか」  当直の水田検事が、気の毒そうに、この先輩にあたる村松に訊いた。 「……」  村松は物を云うかわりに、首を左右に振って答えた。口を開く気力もないといった風であった。 「では村松さん。貴方はここに死んでいる人を殺した覚えがありますか」  村松は、更に無言のまま首を左右にふった。 「では、この人は、どうしてここに死んでいるのです」  村松はやはり黙々として、かぶりを振った。 「検事はん。血まみれの文鎮についとった指紋が、うまく出よりました。これだす」  そういって、鑑識課員が、白い紙に転写した指紋と、凶器になった文鎮とを差出した。 「それから、ちょっと村松氏の指紋を取ってくれ」 「えッ、村松はんのをでっか」  鑑識子はオズオズと気の毒な容疑者村松検事の顔と、命令する水田検事との顔を見くらべた。それを聞いていた村松検事は、無言のまま、右手を前につきだした。ああその手、鑑識子の前に拡げられた村松の掌には、赤黒い血がベットリとついていた。  鑑識子は物なれた調子で、村松の指紋を別の紙の上に転写して、差出した。 「どうだネ、この両方の指紋は……」  水田検事の声は、心なしか、すこし慄《ふる》えを帯びているようであった。  鑑識子は、命ぜられるままに二枚の紙にうつし出された指紋を、虫眼鏡の下にジッと較べていたが、やがて彼の額には、ジットリと脂汗が滲みだしてきた。 「どうだネ。指紋は合っているか、合わないか」 「……同一人の指紋でおます」  鑑識子は苦しそうに応えて、ハンカチーフで額の汗を拭いた。  水田検事は、それを聞くと、傍《わき》を向いていった。 「村松氏を、殺人容疑者として逮捕せよ」  村松氏の手首には痛々しく捕縄がまきついた。曾ては、蠅男の捜査に、係官を指揮していた彼が、今は逆に位置をかえて、殺人容疑者として拘禁される身となった。  疑問の怪人「蠅男」を捕えてみれば、それは人もあろうに「蠅男」捜査の指揮者であった村松検事であったとは。其の場に居合わせた人々は、事の意外に声もなく、ただ呆れるより外なかったのである。  村松検事に世話になっていた人たちは、水田検事の取調べに対して、もっといろいろ反駁してくれることを冀《ねが》っていた。しかるにこの人たちの期待を裏切って、村松検事はほとんど口を開かなかったのである。  なぜ村松は、多くを喋らなかったのであろう。彼は凶器と断定せられる文鎮の上に、自らの指紋がついているのに気がついて、もう何を云っても脱れぬところと、殺人罪を覚悟したのであろうか。それとも何か外に、喋りたくない原因があったのであろうか。  関係者たちに、ひとまず休憩が宣せられ、容疑者村松検事は別室に引かれていった。  現場では、無慚な最期をとげた塩田先生の骸《なきがら》の上に、カーキ色の布がフワリとかけられた。  水田検事の一行は、予審判事と組んで、惨劇の室のうちに、いろいろと証拠固めをしてゆくのであった。  丁度その半ばに、急を聞いて、帆村探偵や正木署長たちが駆けつけた。  いくら村松検事の味方が駆けつけたとて、犯行は犯行であった。水田検事から詳しい説明がのべられると、村松検事の無罪説を信じていた帆村たちも、それでも村松検事は塩田先生殺しに無関係であるとはいえなかった。 (しかし、これは何か大きな間違いがあるのに違いない)  帆村はあくまでそれを信じていた。  でも、内部から鍵をかけた密室の殺人事件——塩田先生は文鎮で脳天をうち砕かれ、村松には凶器である文鎮を握っていた証拠がある。窓は内から鍵こそ掛っていなかったが閉っていたそうである。もし窓が明いていたとしても、誰が窓の外から侵入して来られるだろう。なにしろこの法曹クラブ・ビルというのは、スベスベしたタイル張りの外壁をもって居り、屋上には廂《ひさし》のようなものが一間ほども外に出ばっていたし、人間|業《わざ》では、到底《とうてい》窓の外から忍びこむことが出来そうもなかった。  すると、村松検事の犯行でないという証明は、ちょっと困難になるわけだった。  帆村は、水田検事に頼んで、村松にひと目会わせてくれるように頼んでみたけれど、この際のこととて、それもあっさり断られてしまった。    死闘宣言  帆村探偵は、彼をしきりと慰めてくれる正木署長とも別れ、ただひとり附近のホテルに入った。  糸子の泊っている宝塚ホテルへ帰ろうかと思わぬでもなかったけれど、それよりは村松検事の身近くにいた方が、なにか便利ではないかと思ったからだ。 「どうすれば、村松さんを救いだせるだろうか」  冷たい安ホテルの一室の、もう冷えかかったラジエーターの傍に椅子をよせて、帆村はいろいろと、これからの作戦を考えつづけた。だが一向に、これはと思ううまい考えも浮んで来なかった。  そのうちに彼は、コクリコクリと居眠りを始めた。昼間の疲れが、ここで急に出て来たのであろう。  ガタリ。  突然大きな音がして、帆村はハッと眼ざめた。どうやら廊下の方から聞えたらしい。  深夜の怪音の正体は何? 何者かが廊下の窓を破って、ホテルのなかに忍びこんでくるようにも感じられた。  帆村は素早く室内のスイッチをひねって、室内の灯りを消した。それからポケットからピストルを出して手に握ると、人口の扉の錠を外した。そして床に腹匍《はらば》いせんばかりに跼《かが》んで、扉をしずかに開いてみた。もし廊下に何者かの人影を見つけたら、そのときはピストルに物を云わせて、相手の足許を射抜くつもりだった。 「なアんだ。誰もいやしない」  廊下には、猫一匹いなかった。それでも彼は念のため、廊下に出て、窓を調べてみた。窓には内側からキチンと錠が下りていた。しかし窓はしきりにガタガタと鳴っていた。真暗な外には、どうやら風が出てきたらしい。帆村はホッと息をついて、自分の部屋に帰っていった。  風は目に見えるように次第に強くなり、ヒューッと呻り声をあげて廂《ひさし》を吹きぬけてゆくのが聞えた。  こうしてひとりでいると、まるで牢獄のうちに監禁されたまま、悪魔が口から吐きだす嵐のなかに吹き飛ばされてゆくような心細さが湧いてくるのであった。  チリチリチリ、チリン。  突然、電鈴《ベル》が鳴った。電話だ。  それは夢でも幻想でもなかった。たしかに室内電話が鳴ったのである。深夜の電話! 一体どこから掛ってきたのであろう。  帆村は受話器をとりあげた。 「帆村君かネ」 「そうです。貴方は誰?」  帆村の表情がキッと硬ばり、彼の右手がポケットのピストルを探った。 「こっちはお馴染《なじみ》の蠅男さ」 「なに、蠅男?」  蠅男がまた電話をかけてきたのだ。村松検事の声とは全然違う。帆村は、蠅男に対する恐ろしさよりは、この蠅男の電話を、ぜひとも水田検事に聞かせてやりたかった。 「どうだネ、帆村君。今夜の殺人事件は、君の気に入ったかネ」 「貴様が殺《や》ったんだナ。塩田先生をどういう方法で殺したんだ。村松検事は貴様のために、手錠を嵌《は》められているんだぞ」 「うふふふ。検事が縛られているなんて面白いじゃないか」と蠅男は憎々しげに笑った。「どう調べたって、検事が殺ったとしか思えないところが気に入ったろう。口惜しかったら、それをお前の手でひっくりかえしてみろ。だが、あれも貴様への最後の警告なんだぞ。この上、まだ俺の仕事の邪魔をするんだったら、そのときは貴様が吠《ほ》え面《づら》をかく番になるぞ。よく考えてみろ。もう電話はかけない。この次は直接行動で、目に物を見せてくれるわ。うふふふ」 「オイ待て、蠅男!」  だが、この刹那《せつな》に、電話はプツリと切れてしまった。  神出鬼没とは、この蠅男のことだろう。彼奴は、帆村の入った先を、すぐ知ってしまったのだ。いまの電話の脅し文句も、嘘であるとは思えない。蠅男は宣言どおり、いよいよこれからは直接行動で、帆村に迫ってこようというのだった。帆村はもう覚悟をしなければならなかった。  帆村は奮然《ふんぜん》と、卓を叩いて立ち上った。 (そうだ。村松検事を救い出す手は外にないのだ。それは蠅男を逮捕する一途があるばかりだ。やれ、村松検事が殺人罪に堕ちた。やれ、糸子さんが蠅男に誘拐された。やれ、今度は誰のところに死の宣告状がゆくか。やれ、どうしたこうしたということを気に懸けているより、そんなことには頓着することなく、一直線に蠅男の懐にとびこんでゆくのが勝ちなのだ。蠅男はそうさせまいとして、俺の注意力が散るようにいろいろな事件を組立てて、それを妨害しているのにちがいない。よオし、こうなれば、誰が死のうとこっちが殺されようと、一直線に蠅男の懐にとびこんでみせるぞ)  今や青年探偵帆村荘六は、心の底から憤慨したようであった。一体帆村という男は、探偵でありながら、熱情に生きる男だった。その熱情が本当に迸《ほとばし》り出たときに、彼は誰にもやれない離れ業を呀《あ》ッという間に見事にやってのけるたちだった。今までは、蠅男を探偵していたとはいうものの、その筋の捜査陣に気がねをしたり、それからまたセンチメンタルな同情心を起して麗人をかばってみたり、いろいろと道草を喰っていたのだ。翻然《ほんぜん》と、探偵帆村は勇敢に立ち上った。 (一体、蠅男というやつがいくら鬼神でも、これだけの事件を起して、その正体を現わさないというのは可笑《おか》しいことだ。今までに知られた材料から、蠅男の正体がハッキリ出て来ないというのでは、帆村荘六の探偵商売も、もう看板を焼いてしまったがいい。うむ、今夜のうちに、何が何でも、蠅男の正体をあばいてしまわねば、俺はクリクリ坊主になって、眉毛まで剃ってしまうぞ)  帆村は眉をピクリと動かすと、何と思ったか、狭い室内を檻に入れられたライオンのように、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして気ぜわしそうに歩きだした。    糸子の立腹  帆村探偵は、どんなにして次の朝を迎えたのかしらない。  とにかく彼が、室を出てきたところを見ると、普段から蒼白な顔は一層青ざめ、両眼といえば、兎の目のように真赤に充血していた。よほどの苦労を、一夜のうちに嘗《な》めつくしたらしいことが、その風体《ふうてい》からして推《お》しはかられた。  帆村は、すぐさま村松検事の留置されている警察署へゆくかと思いの外《ほか》、彼はその前を知らぬ顔して、自動車をとばしていった。そして到着したところは、阪急の大阪駅乗車口であった。  彼はそこで大勢の人をかきわけ、大きな声で宝塚ゆきの切符を買った。  急行電車に乗りこんだ彼は、乱暴にも婦人優先席にどっかと腰を下ろすや、腕ぐみをして眼を閉じた。そして間もなく大きな鼾《いびき》をかきだすと見る間に、隣に着飾った若奥様らしい人の肩に凭《もた》れて、いい気持ちそうに眠ってしまった。  車掌が起こしてくれなければ、彼はもっと睡っていたかも知れない。彼は慌てて、宝塚の終点に下りて、電柱の側らで犬のような背伸びをした。  それから彼は、太い籐《とう》のステッキをふりふり、新温泉の方へ歩いていった。  でも彼は、新温泉へ入場するのではなかった。彼はその前をズンズン通りすぎた。そして、やがて彼が足早に入っていったのは、池谷医師の控邸だった。それは先に、糸子が訪れた家であり、それよりもすこし前、池谷医師がお竜と思《おぼ》しき女と、肩をならべて入っていった家であった。  入口の扉には、鍵がかかっていなかった。帆村は無遠慮にも、靴を履いたまま上にあがっていった。何を感じたものか、彼は各室を鄭重に廻っては、押入や戸棚を必ず開いてみた。そして壁や天井を、例の太い洋杖《ステッキ》でコンコンと叩いてみるのだった。  階下が終ると、こんどは階上へのぼって、同じことを繰りかえした。  でも、格別彼が大きい注意を払ったものもなく、別にポケットへねじ込んだものもなかった。十五分ばかりすると彼はまた玄関に姿を現わした。そして後をも見ず、その邸の門からスタスタと外へ出ていった。  それから彼は、再び新温泉の前をとおりすぎ、橋を川向うへ渡った。そこには宝塚ホテルが厳然《げんぜん》と聳《そび》えていた。彼の姿はそのホテルのなかに吸いこまれてしまった。  大川司法主任は、糸子の室の前の廊下で、朝刊を一生懸命に読みふけっているところだった。なにしろその朝刊の社会面と来たら、村松検事の殺人事件の記事で一杯であった。村松検事の大きな肖像写真が出ていて「検事か? 蠅男か?」と、ずいぶん無遠慮な疑問符号がつけてあった。 「恩師殺しに秘められたる千古の謎!」などという小表題《こみだし》で、三段ぬきで組んであった。 「ああ帆村はん。これ、なんちゅうことや。儂《わし》はもう、あんまり愕いたもんやで、頭脳が冬瓜《とうがん》のように、ぼけてしもたがな」  そういって、大川司法主任は、新聞紙の上を大きな掌でもってピチャピチャと叩いた。  帆村は、それには相手になろうともせず、室の中を指《ゆびさ》して、 「どうです。糸子さんは無事ですかネ」と訊いた。 「もちろん大丈夫だすわ。しかし昨夜も、えろう貴方はんのことを心配してだしたぜ。村松はんのことがなかったら二人して貴方はんに奢《おご》って貰わんならんとこや。ハッハッハッ」  大川主任はいい機嫌で哄笑した。  室のなかに入ってみると、糸子はもうすっかり元気を回復していた。ただ、まだ麻酔薬が完全にぬけきらないと見えて、いく分睡そうな顔つきは残っていたが……。 「まあ帆村はん。さっきの夢のつづきやのうて、ほんとの帆村はんが来てくれはったんやなア」  糸子は、けさがた帆村の夢を見ていたらしく、帆村の顔を見て小さい吐息をついた。  糸子があつく礼をいうのを、帆村は気軽に聞きながして、 「さあ、ここでちょっと糸子さんに折入って話をしたいことがあるんです。皆さん、ちょっと遠慮して下さいませんか」  そういう帆村の申し出に、付き添いのお松をはじめ、看護婦や警官たちもゾロゾロと外へ出た。扉がピタリと閉って部屋には帆村と糸子の二人きりとなってしまった。  帆村は何を話そうというのだろう。時刻は五分、十分と過ぎてゆき、廊下に佇《たたず》んで待っている人たちの気をいらだたせた。  すると突然、糸子の金切り声が聞えた。扉がパッと明いて、糸子が寝衣《ねまき》のまま飛び出してきたのだ。 「——帆村はんの、あつかましいのに、うち呆れてしもうた。あんな人やあらへんと思うてたのにほんまにいやらしい人や。さあ、お松。もうこんなところに御厄介《ごやっかい》になっとることあらへんしい。はよ、うちへいのうやないか」  お松は愕いて、 「まあ、どないしはったんや。えろう御恩になっとる帆村はんに、そんな口を利いては、すみまへんで——」 「御恩やいうたかて、あんないやらしい人から恩をうけとうもない。一刻もこんなところに居るのはいやや。さあ、すぐ帰るしい。お松はよ仕度をしとくれや」  何が糸子を憤《いきどお》らせたのであろうか。あれほど帆村に対し信頼し、帆村に対してかなりの愛着を持っていたと思われる糸子が、何の話かは知らぬが、突然憤って帆村を毛虫のように云いだしたんだから、一座もどうこれを鎮《しず》めていいか分らなかった。  糸子たちがズンズン仕度をととのえているのを見ると、さっきから室の片隅にジッと蹲《うずくま》っていた帆村は、黙々として立ち上り、コソコソと廊下づたいに出ていった。大川司法主任も怪訝《けげん》な面持で、帆村の後姿を無言のまま見送っていた。    秘密を知る麗人  その夜、道頓堀をブラついていた人があったら、その人は必ず、今どき珍らしい背広姿の酔漢を見かけたろう。  その酔漢は、まるで弁慶蟹《べんけいがに》のように真赤な顔をし、帽子もネクタイもどこかへ飛んでしまって、袖のほころびた上衣を、何の意味でか裏返しに着て、しきりと疳高《かんだか》い東京弁で訳もわからないことを呶鳴りちらしていた筈である。  もしも糸子が、その酔漢の面をひと目見たら、彼女はあまりの情なさに泣きだしてしまうかも知れない処だった。それは外ならぬ帆村荘六その人であったから。  なぜ帆村は、こうも性質ががらりと違ってしまったんであろうか。昨日の聖人は今日の痴漢であった。  村松検事を救う手がないので自暴《やけ》になったのか。蠅男を捕える見込みがつかないで、悲観してしまったのか。それとも糸子に云い寄って無下に斥《しりぞ》けられたそのせいであろうか。  道頓堀に真黒な臍《へそ》ができた。その臍は、すこしずつジリジリと右へ動き、左へ動きしている。それは場所ちがいの酔漢《すいかん》帆村荘六をもの珍らしそうに取巻く道ブラ・マンの群衆だった。  帆村はポケットから、ウイスキーの壜を出して、茶色の液体をなおもガブガブとラッパ呑みをし、うまそうに舌なめずりをするのだった。そのうちに、何《ど》うした拍子か、喧嘩をおッ始めてしまった。嵐のような人間の渦巻が起った。帆村は犬のように走りだす。その行方にあたってガラガラガラと大きな音がして、女の金切り声が聞える。  ——帆村は一軒の果物屋の店にとびこむが早いか、太いステッキで、大小の缶詰の積みあげられた棚を叩き壊し、それから後を追ってくる弥次馬に向って、林檎《りんご》だの蜜柑《みかん》だのを手当り次第に抛げつけだしたのである。生憎《あいにく》その一つが、折から騒ぎを聞いて駈けつけた警官の顔の真中にピシャンと当ったから、さあ大変なことになった。 「神妙にせんか。こいつ奴が——」  素早く飛びこんだ警官に、逆手をとられ、あわれ酔払いの帆村は、高手小手に縛りあげられてしまった。その惨《みじ》めな姿がこの歓楽街から小暗い横丁の方へ消えていくと、あとを見送った弥次馬たちはワッと手を叩いて囃したてた。  それと丁度同じ時刻のことであったが、本邸に帰った糸子は、何を思ったものか、突然お松に命じて、宝塚ホテルを電話で呼び出させた。 「お嬢はん。なんの御用だっか」 「なんの用でも、かまへんやないか。懸けていうたら、はよ電話を懸けてくれたらええのや」  糸子は何か苛々《いらいら》している様子だった。  宝塚ホテルが出た。  お松がそれを知らせると、糸子はとびつくようにして、電話口にすがりついた。 「宝塚ホテル? そう、こっちは玉屋糸子だすがなア。帆村荘六はんに大至急|接《つな》いどくなはれ」 「ええ、帆村はんだっか。いまちょっとお出かけだんね。十二時までには帰ると、いうてだしたが……」  と、帳場からの返事だった。 「まあ、仕様がない人やなア。どこへ行ったんでっしゃろ」 「さあ、何とも分りまへんなア」  糸子は落胆の色をあらわして溜息をついた。 「なんぞ御用でしたら、お伝えしときまひょうか」  と帳場が尋ねると、糸子は急に元気づき、 「そんなら一つ頼みまっさ。今夜のうちに、こっちへ来てくれるんやったら、例の疑問の人物について、私だけが知っとることを話したげます。明日から先やったら、他へ知らせますから、後から恨《うら》まんように——と、そういうておくれやす」  そこで話を終り、糸子は電話を切った。  お松は傍で聞いていて、可笑《おか》しそうに笑った。 「なんや思うたら、もう帆村はんと休戦条約だっか。ほほほほ」  しかし糸子は、思い切ったことを、帆村に申し入れたものだ。  かねて糸子は蠅男について誰も外の者が知らぬ秘密を握っていると思われたが、いよいよそれを帆村に云う気になったらしい。しかもそれを帆村だけに与えるというのではなく、今夜来なければ、警察の方に知らせてしまうぞという甚だ辛い好意の示し方をした。まだまだ彼女の帆村に対する反感が残っているらしいことが窺《うかが》われた。  でも今夜のうちといえば、帆村は果して糸子のもとへ駆けつけられるだろうか。それは出来ない相談だった。帆村はいま、暴行沙汰のため、警察の豚箱のなかに叩きこまれているはずだった。宝塚ホテルの帳場子は、帆村がそんな目に会っているとは露《つゆ》知るまい。あたら帆村も、ここへ来て慎みを忘れたがために、折角糸子が提供しようという蠅男の秘密を聞く機会を失ってしまって、遂にこれまでの苦労を水の泡沫《あわ》と化してしまうのだろうか。    怪! 怪! 蠅男の正体!  玉屋本邸は、今宵《こよい》糸子を迎えて、近頃にない賑やかさを呈していたが、そのうちに午後九時となり十時となり、親類知己の娘さんたちも一人帰り二人帰りして、やがて十一時の時計を聞いたころには、五人の召使いの外には糸子只一人という小人数になった。  夜は次第に更けるに従って、この広いガランとした邸はいよいよ浸みわたるようなもの寂しさを加えていった。そのうちに、昨日と同じく、風さえ出て、雨戸がゴトゴトと不気味な音をたてて鳴った。  糸子はお松を寝所へ下らせて、彼女は只ひとり、かつて父親総一郎の殺された書斎のなかに入っていった。 「お父つぁん——」  糸子は室の真中に立って、今は亡き父を呼んでみた。もちろん、それに応える声は聞かれなかったけれど。  糸子は父が愛用していた安楽椅子の上に、静かにしなやかな体をなげた。そして机の上にのっている「論語詳解」をとりあげると、スタンドをつけて頁をめくっていった。  そのうちに、いつしか糸子は本をパタリと膝の上に落とし、京人形のように美しい顔をうしろにもたせかけて、うつらうつらと睡りのなかに誘われていった。  外はどうやら雨になったようである。  そのときである。  天井裏を、何か重いものがソッとひきずられるような気持ちのわるい音がした。——しかし糸子は、何も知らないで睡っていた。  ゴソリ、ゴソリと、その不気味な物音は、糸子の睡る天井裏を匍《は》っていった。何者であろうか。召使いたちも、白河夜舟《しらかわよふね》の最中《さいちゅう》であると見え、誰一人として起きてこない。  危機はだんだんと迫ってくるようである。  するとゴソリゴソリの音がパッタリ停った。それに代ってコトリという音が、もっとハッキリ聞えた。それは天井裏についている四角な空気抜きの穴のところで発したものだった。  そのうちに、なにやら黒いものが、その空気穴のなかから垂れ下ってくるのであった。それはだんだん長く伸びて、まるで脚のような形をしていた。そのうちに、また一本、同じようなものが静かに下って来た。どれもこれも、糸のようなもので吊り下げられているらしい。  腕のようなものが一本、それからまた一本! ズルズルとすこしスピードを増して垂れ下がってくる。  この奇怪な有様を、何にたとえたらいいであろう。もしこの場の光景を見ていた人があったなら、この辺でキャッといって気絶してしまうかも知れない。  ——黒い外套のようなものが、フワリと落ちて来た。それにつづいて、穴からヌッと出てきたのは、意外にも人の首だった。見たこともない三十がらみの男の首で、眼をギョロギョロ光らせている。見るからに悪相をそなえていた。  その首はスーッと穴から下に抜けた。それにつづいて肩が出て来るのであろうか。しかしあのような六、七寸の穴から、肩を出すことは難かしいであろうと思われた。  しかるに首はスーッと床の上めがけて落ちていく。首のうしろにつづいているのは、男枕を二つ接ぎあわせたようなブカブカした肉魂。——それでお終いだった。  首と細い胴の一部だけの人間?  それでも、その人間は生きているのであろうか?  ドタリと床の上に痩せ胴のついた首が落ちると、それを合図のように、始めに床の上に横たわっていた長い手や足やが、まるで磁石に吸いつく釘のようにキキッと集まって来た。  やがてムックリと立ち上ったところを見れば、これぞ余人ではなく、有馬山中を疾風のように飛んでいったあの蠅男の姿に相違ない。組立て式の蠅男? なんという奇怪な生き物もあったものだろう。一体蠅男は人間か、それとも獣か?  蠅男は大きな眼玉をギロリと動かして、安楽椅子の上に睡る糸子の艶めかしい姿に注目した。  蠅男はそこでニヤリと気味のわるい薄笑いをして、どこに隠し持っていたのか、一条の鋼鉄製の紐をとりだした。それを黒光りのする両手に持って身構えると、サッと糸子の方にすりよった。……呀《あ》ッ、糸子が危い!  糸子は死んだようになっていた。蠅男の手に懸って、細首を絞められてしまったかと思ったが、そのとき遅く、かのとき早く、 「——蠅男、そこ動くなッ」  と、突然大音声があがったと思う途端《とたん》、寝台の陰からとび出して来た一個の人物! それは誰であったろうか? 警察の豚箱に監禁せられて熟柿《じゅくし》のような息をふいているとばかり思っていた青年探偵、帆村荘六の勇気|凜々《りんりん》たる姿だった。蠅男は無言で後をふりむいた。 「うふ。——いいところへ来たな。俺の正体を見たからには、最早《もはや》一刻も貴様を活かしては置けねえ。覚悟しろッ」 「なにをッ。——」  鬼神「蠅男」と探偵帆村とは、何も知らずに睡っている糸子を間に挟んで、物凄く睨《にら》み合った。  風か雨か、はた大噴火か。乾坤一擲《けんこんいってき》の死闘を瞬前にして、身構えた両虎の低い呻り声が、次第次第に高く盛りあがってくる。——    死闘  獣か人か。  怪物蠅男の身体は首の付いた痩せ胴とバラバラの手足から組立てられて居たとは、実に前代未聞の一大驚異である。  この蠅男の身体に関する秘密は、まだ十分了解することが出来なかったが、決死の青年探偵帆村荘六は脳底から沸き起ろうとする戦慄《せんりつ》を抑えつけて、厳然《げんぜん》とこの大怪物と睨み合っている。  傍らの椅子には、これまた絵に描いたような麗人糸子が膝に伏せた本の上にすんなりとした片手を置いて、何ごとも知らず安らかに眠っている。どうやら糸子は帆村の命令に従って睡眠剤を服《の》んでいるらしかった。もちろんそれは帆村のやさしき心づかいで、この場の異変にこれ以上彼女の繊細な神経を驚かせたくないという心づかいであったに違いない。  怪物蠅男は、見るもいまわしい土色の面に悪鬼のような炯炯《けいけい》たる眼を光らかし、激しき息づかいをしながら、部屋の隅からじりじりと寝台の向うに立つ帆村探偵に向って近付いて来るのであった。  雨か嵐か、はた雷鳴か。怪人と侠青年との息詰まるような睨み合いが続いた。 「勝負は貴様の負だッ。こうなれば観念して、潔《いさぎよ》く降参しろッ」  と帆村探偵は烈々たる言葉を投げつけた。 「なにを言やがる」と蠅男は歯を噛みならし、 「手前こそ息の止らねえうちに、念仏でも唱えろッ。今度こそは手前の土手ッ腹を機関銃で蜂の巣のようにしてやるんだッ。それでもまだ助かるとでも思っているのか」  そう云って蠅男はじりじりと前進し、垂れている左腕を静かに挙げて、帆村の胸元目がけて突き出した。それは黒光りのする腕のようでありながら、まるでぎこちない銃身のように見えた。 「ははあ、くくり付けの機関銃とお出でなすったね。そんなインチキ銃に撃たれてたまるものか」 「よオし、これを喰って往生しろッ」  と蠅男の大喝《だいかつ》と共に長い黒マントの肩先がブルブルと痙攣《けいれん》するより早く、ダダダッと耳をつん裂くような激しい銃声! 「うぬッ——」  帆村はさっと寝台の蔭に身を沈めた。——と見るよりも早く、蠅男の隙を狙って寝台の下からパッと投げつけた渋色の投網《とあみ》!  網は空間に花火のように開いて、蠅男の頭上からバッサリ落ち掛ったが、蠅男もさるもの、不意を打たれながらもツツーッと身を引けば、網はかちりと蠅男の左腕の中に仕込まれた機関銃に絡《から》み付《つ》いた。 「生意気なッ——」  と蠅男が気色ばむ所を帆村はすかさず、 「えいッ」  と大声もろともすかさず投げ付けた丈夫な撚《よ》り麻の投縄——それが見事蠅男の左腕の中程をキリリと締め上げた。 「さあ、どうだッ」  と帆村は歓声をあげ、気を外さず麻縄の端を寝台の足に通して、それを支えに満身の力を籠めてえいやッと引けば、流石の蠅男も思わずツツーッと前にのめろうとするのを、ウムと堪えて引かれまいと、反《そ》り身になって抵抗するうち、どうしたはずみかドーンと云う大きな響きを打って蠅男の左腕は肩の附根からすっぽり抜け落ち床の上に転がった。 「あッ、しまった——」  と蠅男が鉄の爪を持った残りの右腕を伸ばして床の上の抜けた左腕を拾おうとするのを、帆村はそうさせてはなるものかと寝台の上をヒラリと飛び越し、隠しもっていた桑の木刀でヤッと蠅男の頤《あご》を逆に払えば、 「ギャッ」  とさしもの蠅男も痛打にたまらず、※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と床上に大の字になって引繰り返った。闘いは帆村の快勝と見えた。 「おとなしくしろッ」  と帆村は蠅男のうえに馬乗りになり、いきなり相手の咽喉をグッと締め付けた——それがよくなかった。蠅男にはまだ人間放れのしたもの凄く頑強な右腕の残っていたことを忘れていたのだ。  キリキリキリと怪音を立てて蠅男の右腕が起重機のように三|米《メートル》ばかりも伸びたかと思うと、それが象の鼻のようにくるくるッと帆村の背後に曲って来て、大きな鋏のような鉄の爪が帆村の細首目掛けてぐっと襲い掛らんとする——あッ、危い!  糸子は先程から目を醒ましていた。いくら強い睡眠剤でも、部屋の中で機関銃を撃たれては眠っても居られない。彼女は突然目の前に展開しているもの凄い死闘の光景に呑まれて、魂を奪われた人のように呆然と成行を眺めて居たのである。しかし今愛人帆村の一命に係わる大危機を目の前にしては、どうしてその儘《まま》竦《すく》んでいられよう。彼女は素早く身辺を見廻し、机の上に載って居た亡き父の肖像入りの額面を取上げるより早いか二人の方に駆け寄り蠅男の顔面目掛けて発止《はっし》と打ち下ろした。 「うむッ。——」  と蠅男は呻り声を挙げ、帆村の背後に伸びようとした鉄の爪がわなわなと虚空を掴んだ。 「糸子さん、危いからどいていらっしゃい」  帆村は糸子に注意をした。そこに一寸の隙があった。それを見逃すような蠅男ではなかった。 「えいやッ——」  と蠅男は腹の上に乗っていた帆村を下から座蒲団か何かのようにどんと跳ね飛ばした。  あッと云う間に帆村は宙を一転して運よく寝台の上に叩き付けられたが、若しそこに柔い寝台が無かったら帆村の両眼はぽんぽん飛び出していたかも知れない。  帆村はくらくらする頭を押えて、撥人形のように寝台を飛び降りた。この時素早く起き直った蠅男は右手を伸べて傍《かたわ》らのガラス窓を雨戸越しにバリバリと破り、その穴から化け蝙蝠《こうもり》のようにヒラリと外へ飛び出した。  帆村が続いて外に飛び出して見ると、蠅男は何処へ行ったものか影も姿もなく、戸外には唯ひっそり閑《かん》とした黒暗暗《こくあんあん》たる闇ばかりがあった。    帆村の奇略  その翌朝のことであった。一夜を糸子の家に明かした帆村は、暁を迎えて昨夜の蠅男との恐ろしい格闘を夢のように思った。  全く生命がけの争闘であった。こちらもたった一つしかない生命を賭け、怪物蠅男も亦その時は死にもの狂いで立ち向ったのだった。麗人糸子さえ、男子に優るとも劣らないような覚悟を以て死線を乗り越えたのだ。隙間を漏るる風にも堪えられないような乙女をして、こうも勇敢に立ち向わせたものは何か。それは云うまでもなく、乙女心の一筋に彼女の胸に秘められたる愛の如何に熾烈なるかを物語る以外の何ものでもなかった。 「帆村はん。もうお目醒め——」  と麗人糸子は、憔悴《しょうすい》した面に身躾《みだしな》みの頬紅打って、香りの高い煎茶の湯呑みを捧げ、帆村の深呼吸をしているバルコニーに現われた。 「やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女《あなた》が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ」 「まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうち[#「うち」に傍点]のため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせて居ります。こないに帆村はんを苦しめるくらいやったら、うち[#「うち」に傍点]が蠅男に殺されてしもうた方がどのくらいましやか知れへんと思うて居ります」 「何を仰有るのです。まだ蠅男との戦いは終って居ないではありませんか。そんな弱気を出しては、貴女のお父さんの仇敵《かたき》はとても打てませんよ」  と帆村はさり気なく糸子の言外の言葉を外して、ただ一筋に彼女を激励した。糸子はあとは黙って、伏目勝ちに帆村の傍で空になった盆を頻《しき》りに撫でて居た。今更説明する迄もあるまいが、昨夜蠅男を糸子の邸に誘い込んだのも総て帆村の計略だった。彼は蠅男と決戦をする為に態《わざ》とそう云う機会を作ったのだった。最初宝塚ホテルで糸子に「いやらしい人」と腹を立てるよう頼んだのも帆村の計略だった。それから糸子が後ほどホテルの帳場に「帆村さんが帰って来たら蠅男の秘密を言うから来て呉れ」と嘘を言わせたのも彼の計略、それから帆村がウイスキーに酔払って道頓堀で乱暴を働き豚箱に打込まれたのもその計略だった。そこで帆村は、親しい正木署長を呼んで貰って事情を話し、留置場を出して貰うと直ぐに糸子の邸に隠れて、蠅男を迎える準備にかかった。宝塚ホテルの電話は屹度《きっと》蠅男の耳に入るに違いないことは、それ迄の例で分って居たから、それを知れば蠅男はその夜のうちに彼の秘密を知って居ると云う糸子の寝所を襲うだろうとは予期出来ることだった。全くその通りだった。果して蠅男は天井裏を這って侵入し、そこで書斎内で待期して居た帆村探偵とあの激しい死闘を交えるに至ったものであった。  しかし折角の帆村の奇襲作戦も蠅男の超人的腕力に遭ってはどうすることも出来ず、遂に闇の中に空しく長蛇を逸してしまった形だ。さて今や怪物蠅男は何処に潜んで居るのだろう?  唯一つ茲《ここ》に帆村を心から喜ばせたものは、蠅男の落として行った機関銃仕掛の左腕であった。帆村はそれを見せるために、糸子を部屋の中に誘った。 「ごらんなさい。糸子さん。恐ろしい仕掛のある鉄の腕です。こっちを引張れば、生きた腕と全く同じように伸び縮みをするし、こう真直にすれば、機関銃になるんです。まだあります。ほらごらんなさい。弾丸《たま》の代りに、こんな鋭い錐《きり》が吹き矢のようにとびだしもするし、その外ちょっと重いものなら、ここにひっかけてパチンコかなどのように撃ちだせる。——」  帆村は不図《ふと》気がついて顔をあげた。糸子が嗚咽《おえつ》しているのだった。 「どうしました」といったが、そのとき帆村はハッと気がついた。「そうだ、この錐なんですよ、あなたのお父さまの生命を奪ったのは……」  糸子はそれに早くも気づき、哀《かな》しい追憶に胸もはりさけるようであったのだ。帆村はいろいろと彼女を慰めることにひと苦労もふた苦労もしなければならなかった。  実は帆村は、まだそれ以上の蠅男の凶器を知っていた。それはその抜け腕の或るところに大豆が通り抜けるほどの穴が腕に沿って三、四個所も明いていたが、ここには元、鉄の棒が入っていたのだ。その棒は彼が拾ってもっていた。あの宝塚の雑木林の中で拾った先端にギザギザのついたあの棒である。あのギザギザは、蠅男が左腕を長く前に伸ばすときに、ちょうど折畳式の写真機の脚をのばすような具合に腕の中からとび出してくる仕掛になっていることに今になって気がついたのである。あの林の中で、蠅男は不注意にも、あれの脱けおちたのに気がつかなかったのだった。しかしあの鉄の棒を拾ったときに、まさかこんな奇怪なカラクリが蠅男の腕にあろうとはさすがの帆村探偵も気がつかなかった。考えれば考えるほど恐ろしい怪物だった。  一体このような恐ろしい怪物がどうして生れたんだろう? それはちょっと解くことのできない深い謎だった。  帆村は蠅男の左腕を前に置いて、ジッと深い考えに沈んだ。それからそのいつもの癖《くせ》で、彼はやたらに莨《たばこ》を吸って、あたりに莨の灰をまきちらした。 「うむ、そうだった」と、何事かに思いあたったらしく彼は突然|呟《つぶや》いた。「これはやはり、蠅男がこれまで通ってきた道を、はじめからもう一度探し直してみる必要がある。蠅男が最初名乗りをあげたのは何処だったか。それは無論鴨下ドクトルの留守中、その奇人館のストーブの中に逆さに釣りさげられていた焼屍体に発しているんだ。あのとき蠅男は、新聞紙を利用した脅迫状に、はじめて(蠅男)と署名をしたのだった。第二の犠牲者は玉屋総一郎、第三の犠牲者は塩田元検事と、ちゃんと身柄が判明しているのに、ああそれなのに奇人館に発見された焼屍体の身許が今日もなおハッキリしていないのは変ではないか。すべて連続的な殺人事件には、必ず何か共通の理由がなければならぬ。蠅男はなぜ三人の人を殺したか。そうだ。その殺人の理由は第一の犠牲者の身許がハッキリさえすれば、ある程度解けるにちがいない。うむ、よオし。それを知ることが先決問題だ。では、これから奇人館に行き、鴨下ドクトルに逢って、手懸りを探しだそう」  帆村珠偵は、何かに憑《つ》かれた人のように血相かえて立ち上ると、それを心配して引きとめる糸子の手をふりはらって、外へとびだした。  果して彼は奇人館に於て、何を発見する?    大戦慄  帆村探偵が、住吉区岸姫町の鴨下ドクトル邸を訪れてみると、そこの階下《した》の応接室には、先客が三人も待っていた。それは大阪へ来たついでに楽しい近県旅行をしていたドクトルの一人娘カオルと情人上原山治と、外に正木署長との三人だった。カオル達は、約束どおりに、帰阪するとすぐさま署へ出頭し、そこで此の前は不在だった父親ドクトルに連れ立って会いにきたものであることが分った。  帆村の名刺も、雇い人の手で二階の研究室にいるドクトルに通じられたが、その返事は、逢うには逢うが、いま実験の途中で手が放せないから暫く待っていてくれとのことだった。 「カオルさんは今度お父さまにまだひと目も会っていないのですか」  と、帆村は座が定まると、ドクトルの令嬢に尋ねた。 「さっきチラリと廊下を歩いている父の後姿を見たばかりですわ」 「そうですか。幼いときお別れになったきりだそうですが、お父さまの姿には何か見覚えがありましたか」  と問えば、カオルは首飾りをいじっていた手をとめ、ちょっと首をかしげて、 「どうもハッキリ覚えていませんのですけれど、幼《ちいさ》いときあたくしの見た父は、右足がわるくて、かなりひどく足をひいていたようですが、今日廊下で見た父は、それほど足が悪くも見えなかったので、ちょっと不思議な気がいたしましたわ」 「ほうそうですか。ふうむ」  と、帆村は腕組をして考えこんだ。  そのとき正木署長のところへ電話がかかってきたとかで、雇い人に案内されて出ていった。が、すぐ署長はとってかえして、急用が出来たから署へ帰る。しかしすぐまた此処へ出直すから後をよろしくと帆村にいってアタフタと出掛けていった。  あとは三人になった。 「するとカオルさん。貴方はなにかお父さまの身体についていた痣とか黒子《ほくろ》とか傷痕とかを憶えていませんか」  と、何を思ったものか帆村はさきほどから熱心になって、カオルに話しかけたのであった。 「さあ、そうでございますネ」とカオルはしきりと古い記憶を呼び起そうと努力していたが、「そうそう、あたくし一つ思い出しましたわ」 「ふうむ。それは何ですか」  と、帆村は思わず膝をのりだした。 「それは——」  とカオルが云いかけたとき、雇い人が急いで室内にはいってきて、ドクトルがこれから二人に会うからすぐに二階へ来てくれと伝言をもってきた。カオルは遉《さす》がにパッと眸《ひとみ》を輝かし、十五、六年ぶりに瞼の父に会える悦びに我を忘れているようであった。  カオルと山治とが席を立って、二階へ上っていくのを見送った帆村は、ただ一人気をもんでいた。若き二人をドクトルの部屋にやることがなんとなく非常に不安になってきた。といって、呼ばれもせぬ彼が、後から追いかけてゆくのも変である。帆村はイライラしながら、全身の注意力を耳に集め、なにか階上から只ならぬ物音でも起りはしないかと、扉のかげに寄り添い、聞き耳たてていた。  一分、二分と経ってゆくが、何の物音もしない。これは自分の取越苦労だったかと、帆村が首を傾けた折しも、「帆村はん。先生が二階でお呼びだっせ。すぐ会ういうてはります」  と、三度雇い人が、室内に入ってきた。帆村はハッと思ったが、強いて平静を装い、先に案内に立たせ、二階へ上っていった。 「よう、帆村荘六君か。大分待たせて、すまんかったのう。さあ、こっちへ——」  と、黒眼鏡をかけ、深い髯の中に埋った鴨下ドクトルの顔が、階段の上で待っていた。帆村はドクトルのその声の隅に、何処か聞き覚えのある訛《なま》りを発見した。  ドクトルは帆村を案内して、書斎のなかに導き入れた。帆村はその部屋の中を素早く見廻して、先客である筈の二人の若き男女の姿を求めたが、予期に反してカオルの姿も山治の姿も、そこには見えなかった。  ドクトルは入口の扉をガチャと締めながら、 「まあ、そこへお掛け。きょうは何の用じゃな」  と、皺枯《しゃが》れ声でいった。  帆村は、中央の安楽椅子の上にドッカと腰を下ろし、腕組をしたまま、 「きょうは一つ貴方に教えていただきたいことがあって参ったのです」 「ナニ儂に教えて貰いたいというのか。ほう、君も老人の役に立つことが、きょう始めて分ったのかな」 「その老人のことなんですよ」と帆村は薄笑いさえ浮べて、 「つまり鴨下老ドクトルを階下のストーブの中で焼き殺した犯人は誰か? それを教えて貰いたい」 「何を冗談いうのじゃ。鴨下ドクトルは、こうして君の前に居るじゃないか。血迷うな。ハッハッハッ」  生きている鴨下ドクトルに、鴨下ドクトル殺しの犯人を尋ねるというのは狂気の沙汰だった。帆村探偵は遂に逆上をしたのであろうか。 「言うなッ」と帆村は大喝してドクトルを睨《にら》みつけた。「なんだ、その貴様の左腕は何処へ置き忘れて来たのだッ」 「呀《あ》ッ、こいつを知られたかッ」  と、ドクトルはブラブラの左腕の袖を後に隠したが、もう遅かった。 「さあどうだ、蠅男! 化けの皮を剥いで、両手をあげろッ。無い方の手も一緒に挙げるんだ」  と、ピストルを擬して帆村は無理なことをいう。 「うわッ、はッはッ」  と、蠅男は附け髯のなかから哄笑した。 「手前こそ、今度こそは本当に念仏《ねんぶつ》を唱《とな》えるがいい。この室から一歩でも出てみろ。そのときは、手前の首は胴についていないぞ」  蠅男は、大蟹《おおがに》のような右手の鋭い鋏をふりかざして恐れ気もなく帆村に迫ってきた。  今や竜虎《りゅうこ》の闘いである。悪竜《あくりゅう》が勝つか、それとも侠虎《きょうこ》が勝つか。生憎《あいにく》と場所は敵の密室中である。部屋の入口には鍵が懸っていた。    落ちた仮面 「此奴《こいつ》がッ——」  ドドンと帆村は敢然《かんぜん》引き金を引いた。今や危急存亡《ききゅうそんぼう》の秋《とき》だった…… 「うわッはッはッ」  人を喰った笑い声もろともアーラ不思議、蠅男の身体がドーンと床の上に仆れるが早いか、ガチャガチャと金属の摺れあう音がして、蠅男の胴と手足がバラバラになった。 「呀ッ!」  と帆村の逡《たじろ》ぐ前に、バラバラになった蠅男の五体は、まるでその一つ一つが独立した生き物のように、物凄い勢いでクルクルと床上を匍いまわり、次第次第に帆村の身近く迫ってくるのであった。勇猛な帆村探偵も、この勝手のちがった相手の攻勢に遭って、手の出し様がなかった。クルクル廻る蠅男の首を狙うべきか、脚を抑えるべきか。  帆村は咄嗟《とっさ》にヒラリと安楽椅子の上にとび上った。そして手にしたピストルを下に向けて、ドドドーンと乱射した。 「ぎゃッ。——」  と、途端《とたん》に聞ゆる悲鳴、素破《すわ》ピストルの弾丸が命中したかと思った刹那《せつな》、傍らの壁に突然ポッカリと丸窓のような穴が明き、蠅男の右腕がまずポーンと飛びこむと、続いて首と胴が、更に鋼条でつながれた二本の義足が、蛇が穴に匍いこむようにゾロゾロッと入ってゆく——。 「こら、待てッ。——」  と、帆村はピストルを其の場になげだし、折しも穴を潜ろうとする蠅男の一本の足に素手で飛びついた。そうはさせじと蠅男の脚は、恐ろしい力で穴の中へ帆村の身体もろとも引張りこもうとする。エイヤエイヤと、とんだところで蠅男と帆村との力較べが始まったが、やがてギィーッと奇異な音がして帆村探偵は呀ッという間もなくドーンとうしろにひっくりかえる。  パタンと丸窓の閉まる音。  ムックリ起き上った帆村の手には、奇妙な物が残った。それは人間の足首そっくりに作られた鋼鉄とゴムとを組合わせた左の義足だった。  帆村は死人のように青褪《あおざ》め、この奇妙な分捕品を気味わるげに見入った。  折よくそこへ、正木署長が一隊の腕利きの警官をひきつれて駈けつけ、扉《ドア》を蹴破ってくれたので、帆村は蠅男の追跡を署長に委せ、彼は暫くの休息をとるために、室内の安楽椅子に腰を下ろして汗をふいた。 「なんという怪奇!」  帆村は疲労を一本の莨にもとめて、うまそうに紫煙をくゆらせながら、呟いた。今しがたのあの恐ろしい格闘の光景を思い出すと、また急に気が遠くなりそうであった。彼は随分これまで狂暴な殺人犯人にも出会ったが、いくら狂暴でも獰猛《どうもう》でも、この怪奇なる組立て人間「蠅男」に較べると作り物の大入道ほども恐ろしくはなかった。怪物蠅男の出現は、人間の常識を超えている! 神か、魔か? どうしてこんな奇異な人間が存在し得るのか?  それにしても、蠅男が鴨下ドクトルに化けていたのを今迄誰も知らなかったとは、なんという迂濶《うかつ》なことだろうか。帆村も、それを真逆今日になって発見しようとは考えていなかった。丁度旅から帰ってきた鴨下カオルと上原山治と一度会ったとき、不図《ふと》放った帆村の質問から、偽《にせ》ドクトルの仮面が剥《は》げはじめたのである。しかもその話の最中に二人の若き男女は、偽ドクトルに呼ばれて、この階上に来た筈であるが、怪しくも何処へ行ったものか、影さえ見えない。帆村はそれを蠅男の狂悪性と結びあわせて、思わずブルブルと身慄いを催した。 「こうしちゃいられないぞ」  帆村は吸いつけたばかりの二本目の莨を灰皿に捨てて、スックと立ち上った。蠅男の正体も調べたいが、若き二人の安危が更に気に懸る。  彼は書斎を調べて廻ったが、思うようなものにぶつからなかった。そこで廊下に走りでて、両側に並んでいる室々を片っぱしからドンドンと叩いて廻った。  すると、果して一つの部屋のうちから、微《かす》かではあったが、人間の呻《うめ》くような声を耳にした。その部屋はかつて蠅男が帆村を狙いうちにした暗い部屋だった。  扉を蹴破ってみると、果してその小暗い室内に、洋装のカオルと山治とが荒縄でもってグルグル巻きに縛り合わされていた。  帆村は愕いて、すぐさま二人の戒《いまし》めの縄を解いてやった。  二人は再生の悦びを交々《こもごも》のべた後で、偽の父と見破った瞬間に、忽ちこんな目に合ってしまったことを説明した。帆村は、それこそ怪物蠅男が化けていたのだ、といえば山治は、 「——その蠅男は、僕たちが階下《した》の応接室で喋っていたことを、マイクロフォン仕掛で、すっかりこっちで聞いていたんだって云っていましたよ」 「そうなんですのよ。あたくしが父の身体の特徴について、貴方に申上げようとしたので、それを喋られては大変と愕いてこの階上に呼びあげたのですわ。あたくしも、もうすっかり覚悟をしてしまいました。父は蠅男のためにストーブの中で焼き殺されたに違いありませんわ」 「なるほど、あの焼屍体の半焼けの右足の拇指が半分ないのは、お父さまの特徴と一致するというわけですね」  カオルはそれに応える代りに、はふり落ちる泪を手で抑えつつ大きく頷《うなず》いた。無慚《むざん》な最期を遂げた亡き父に対する悲しみが、今や新たに泪《なみだ》を誘ったのに相違なかった。 「お嬢さん。ドクトルはどうして蠅男に殺されるようなわけがあったのでしょうネ」  と、帆村が率直に質《たず》ねると、カオルは泪に泣きぬれた白い面をあげて、 「さあそれが、あたくしには一向心当りがございませんのです」 「うむ、貴方にもやはり分りませんか」  帆村は、また一つ希望を失った。  だが根本によこたわる彼の信念は微動もしなかった。蠅男の兇刃《きょうじん》に斃《たお》れた鴨下ドクトル、それから富豪玉屋総一郎、最近に元検事正塩田律之進——この三人は、何か蠅男から共通の殺害理由をもちあわしていたに違いないということだ。その殺害理由を探し出すことが、この大事件を解決する一番近道であらねばならぬ。一体それは何だろう。  この最初の被害者である鴨下ドクトル邸内にも、必ずやその殺害理由を説明するに足る秘密材料の一つや二つが隠されているに相違ない。この際、出来るだけ早くそれを探しあてることだ。  帆村は、心の中に頷《うなず》いて、小暗い部屋の中を見廻した。暗さの中に瞳が慣れると、この部屋は書庫であるのに気がついた。その書庫には、プーンと黴《かび》の生えた匂いのする古い図書が何万冊となく雑然と積みかさねられてあったのである。  いま帆村の感覚は針のように尖っていた。彼はその堆高《うずたか》い古書の山を前に向いあっていたとき、不図《ふと》一つの霊感を得た。 (——この古書の中に、なにか参考になる記録が交っておりはしまいか?)  そう思いつくと、帆村は猛然と活動を開始した。彼はその堆高い古書を、片っぱしから調べ始めたのである。  カオルと山治も、帆村のために進んで協力を申出でた。そこで三人は、鼠のようになって、古書の山を切り崩していった。  小半時間も懸ったであろうか。 「うむ、あったぞッ!」  と、突然帆村が叫んだ。カオルと山治が愕いてその方を見ると、帆村探偵は、空っぽになった本棚の隅から一冊の皮表紙の当用日記を、頭上高くさしあげていた。 「これだこれだ。ドクトルの日記だ。塩田検事正の名が出ている!」 「ええッ」 「まだある。玉屋総一郎の名もあるんだ」  帆村探偵は興奮のあまり、ドクトルの日記帳をもつ手のブルブル慄えるのをどうすることもできなかった。  鴨下ドクトルの日記帳の中には、そも如何なる大秘密が認められてあったろうか?    縮小人間の秘密  実に貴重なる鴨下ドクトルの日記帳だった。  プーンと黴の匂いが鼻をうつその黄色くなったドクトルの日記帳のページの中から、永らく帆村の知りたいと思っていた「蠅男」の正体が遂に顔を出したのであった。  帆村は、青白い額の上にジットリと脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませながら、日記帳の中に認められていた愕くべき十年前の秘密について、ドクトルの遺児カオルとその愛人との前に説明をした。その大略は次のようなものであった。      *  その日記帳を展げてみると、まずドクトルが一つの素晴らしい医学的研究を思いついて、たいへん得意らしい文章が目についた。そこには、その研究がどんな素晴らしい内容をもっているのか、それには触れていなかった。  其の次には、ドクトルはその研究材料となってくれる人間を何とかして獲たいものだと、くどくどと熱望の言葉がつらねてあった。  それからしばらくページを繰ってゆくと、こんどはいよいよ念願が叶って、近く試験台になる人間を手に入れることができるかもしれないと書いてあった。  時の塩田検事正の名が登場したのも、それから幾日と経たないのちのことだった。塩田検事正は、予(ドクトルのこと)の願いを入れて死刑囚を一旦処刑後引渡すから後はそのまま死なすなり生かすなり思うようにしろと云ってくれたこと、但しこれが他に知れると由々敷《ゆゆし》き大事《だいじ》であるから絶対秘密を守るようにという条件を持ち出されたことが認められてあった。  それから一週間ほどして、日記帳のページは何のためか十日間ほど空白のまま残されていたが、その後の日附のところには、突然|糊本千四郎《のりもとせんしろう》の名が現われ、しかも毎日附け落ちもなくその消息がつけてある。この様子から見ると既に糊本はドクトル邸に同居しているらしかった。  二十八歳の死刑囚糊本のことについては、ずっと後に数頁を費《ついや》して詳しく説明がしてあった。それによると、死刑囚糊本は南洋で案内人を業としているうち、日本から出稼ぎできていた西山某なる商人の所持金を奪うため、海岸の人気のないところで棍棒をふるって無慚《むざん》にも撲殺し、所持金を奪って逃走した。誰知らぬと思いの外《ほか》、それを同じくこの地に出稼ぎ中の同郷の人、玉屋総一郎に見られてしまい、後に裁判所に於て玉屋の証言が取上げられ、糊本は遂に死刑を宣告されたとある。  その殺人犯の糊本が刑死すると、塩田検事正の取計いで彼のまだ生温い屍体はドクトル鴨下の待っていた寝台自動車のなかに搬びいれられた。  糊本はドクトルの手で、見事に蘇生《そせい》せしめられた。しかし彼は蘇生したことを悦ぶ前に、身動きならぬほど厳重に手術台の上に縛りつけられている我が身を怪しまねばならなかった。彼の眼は、ピカピカ光るメスを手にした鴨下ドクトルを見つけた。「何事?」と詰問しようと思ったとき、彼の鼻孔には麻酔薬の高い匂いが香《にお》った。——ドクトルの実験は、そのような光景の中に始まったのである。  鴨下ドクトルは、糊本の手足を、惜し気もなく電気メスで切断した。そればかりではない。腹腔をたち割って、腸を三分の一に縮めた。胃袋はすっかり取り去られて、食道と腸とが連結された。肺臓とか腎臓とか二つある内臓の一つは切除された。不用な骨や筋肉が取り去られた。満足なのは頸から上だけだった。四時間ほどのうちに遂に手術台の上の糊本の身体は、見るかげもなく小さく縮められた。まるで首の下に肉色の男枕をくくりつけたような畸形人間となり果てた。なんという無慚《むざん》な浅ましい姿に変ってしまったのだろう。  鴨下ドクトルは、始めてホッと息をついた。こうして大実験のための手術だけは終ったのである。彼はなぜこんな残虐きわまる畸形人間を作ったのであろうか。  鴨下ドクトルは、一つの大きな学説を持っていた。それをこの縮小人間によって確かめようと考えたのだ。その学説によると、もし人間が生きるのに直接必要でない肉体部分——つまり心臓や肺臓は是非必要だが、手足や二つ以上ある内臓は、これを切除するか又は一つに減らしてしまう。そうすると人間の脳力は、手足などのことに煩わされることがなくなり、結局今まで無駄につかっていた脳力が余ってくるから、従ってその人間は普通の人間よりも何倍も悧巧になる。——だろうというのが、縮小人間に対する鴨下ドクトルの学説だった。この大胆なる学説が、果して正しいかどうか、鴨下ドクトルはそれを人類文化に大なる貢献をする研究だと思い、遂にその実験台となる人間を親しい塩田検事正に無心したのである。そこで死刑囚糊本が選ばれ、大手術の結果、ここに通称「蠅男」の誕生となったものである。鴨下ドクトルの日記によれば、この縮小人間は体力の回復とともに、予期したとおり普通の人間とは比べものにならぬほどの悧巧さを示した。鴨下ドクトルの悦びは、何物にもたとえ難かったが、彼はこの発表をさしひかえて、更に縮小人間の完成に研究をすすめたのであった。蠅男は今やドクトルの懸けがえのない優れた助手だった。二人の共同研究で、電力や磁石で働くという巧妙な新義手や義足を作製した。この組立式の手足のため、蠅男の立居は非常に便利になった。実に愕くべき成功だった。  しかし鴨下ドクトルは、どうやら大事なことを忘れていたようであった。ドクトルはそのことを日記の終りの方に自ら記しているが、それはこの蠅男の修理された脳力は、あまりにも超人的であって、不世出の大天才と折紙をつけられた鴨下ドクトルの脳力さえ、蠅男の脳力の前には太陽の傍の月のように見劣りがするという事実だった。それは愕くというよりも、むしろ恐ろしいことであった。ドクトルの日記は次のような文句をもって結ばれていた。 「——予はあまりにも、神を忘れて魔の学問の中に足を踏み入れすぎた形だ。予は『縮小人間』を拵《こしら》えたことを今や後悔している。出来るなら、今宵のうちにも、この『縮小人間』を殺してしまいたいと思う。そうすることが、自分の研究を永久に葬りさり、そして万一『縮小人間』が世の中に飛びだして、前代未聞の超人的暴行を働くのを予《あらかじ》め阻止することにもなるのだ。一刻も早く彼を殺さねばならぬ。しかし予は懼れる。あの悧発な『縮小人間』が予のこの危惧と殺意に気づかぬ筈はないのだ。今や時既に手遅れなのではあるまいか。  予は今日になって、幼なきときに人手に預けてしまった只一人の子供カオルのことを想う。おお吾が愛するカオルよ。汝の父は愛しき御身を今日まで忘れていた。汝の父は、その罪のために、今や悪魔の牙に噛みくだかれようとしているのだ。罪の父はただひと目、御身の顔《かんばせ》を見たいと切望するが、その願いも今はもう空《むな》しき夢と諦めなければならないのかもしれない、噫《ああ》!」  帆村の読みあげる天才ドクトルの切々の情をこめた日記の文句に、遺児カオルは怺《こら》えに怺《こら》えていた悲しみの泪をおさえかね、ワッと声をあげて愛人山治の膝に泣き崩れた。  さて探偵帆村荘六の努力が遂に酬いられて前代未聞の「蠅男」の全貌が始めて明らかになった。中でも悦んだのは、府下を守る捜査陣であった。村松検事も自由の身となった。蠅男が検事に塩田先生殺しの罪をぬりつけようとした次第が明らかになったので。蠅男は鴨下ドクトルに化けて洗面所に入ると見せ、すぐさまその窓から法曹ビルの外壁を、あの巧妙な鉄の爪でもって匍いのぼり、窓の外から塩田先生の頭蓋骨に用意の文鎮《ぶんちん》を発射したことが判明したのだった。村松検事は、帆村の顔を見るや走りよって固い固い握手をした。それは冷静を以て聞える村松検事にしては、先例のない昂奮状態であった。帆村も強くその手を握りかえし、 「さあ、村松さん。ぐずぐずしてはいられませんよ。蠅男は想像以上に恐ろしい奴です。亡き鴨下ドクトルも、万一蠅男が市中にとび出したときには、その卓越した頭脳力をもって、どんな狂悪極まる暴行をするかしれないと云っています。あの右手左手の機関銃やなんかのカラクリも、蠅男がドクトルに隠れて作りあげたものに相違ありません。さあ、われわれは一刻も早く、市民の安全のために、恐るべき蠅男を捕えなければなりません」 「そうだ」と村松検事も警官隊の方をふりむき、「蠅男の恐るべき正体はようやく分ったが、蠅男は毒牙を磨いて、暴行の機を狙っているのだ。彼奴《きゃつ》を捕えてしまわないうちは、われわれは枕を高くして眠れないのだ。さあ、こうなったら決死の覚悟で、直ちに蠅男狩りを始めるんだ!」  警官隊も、この検事の激励の辞にふるい立った。そして此処に、大阪全市をあげての警備陣が組織され、厳重を極めた大捜索戦の幕が切って落とされた。怪人蠅男は、そも何処《いずこ》に潜んでいるのであろうか。    警察投書  稀代の怪人「蠅男」の世にも恐ろしき正体は遂に曝露《ばくろ》した。  青年探偵帆村荘六の必死の努力は、警察官をよく援《たす》けて、この前代未聞の怪事件の謎を解くことに成功したのだった。  ただ惜しいことには、もう一歩というところで、怪人「蠅男」を逃がしてしまったことである。  蠅男は、しかしながら、帆村の得意とする投縄によって、機関銃仕掛になっている左腕を肩のところから※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ落とされ、あまつさえ左の足首さえ切断されてしまった。蠅男の勢いは、それだけ削がれたのであった。これは皆、帆村の直接手を下した殊勲であった。  だが普通の人間とちがい、勝れた智能をもった蠅男のことだから、いついかなる手をもちいて又候《またぞろ》暴逆の挙に出てくるか分らない。だから結局、蠅男を完全に逮捕してしまわないうちは、大阪全市の市民たちは、枕を高くして睡ることができないわけだった。  帆村探偵を激励する手紙や、警察官の奮起をのぞむ投書などが、毎日のように各署の机の上にうずたかく山のように積まれていった。  蠅男は何処に潜んでいるのであろうか。  多分、お竜と呼ばれる彼の情婦と手を組みあって、市内に潜伏しているのであろう。  さあいま一息だとばかり、係官はじめ帆村探偵も、昼夜を分かたず、蠅男の逃げ去った跡を追い、要所要所を隈なく探していったのであるが、蠅男の隠れ様がうまいのか、それとも係官たちの探し様が拙いためか、尋ねる蠅男の行方について、何の手懸りも発見されなかったのであった。住吉署の捜索本部には、連日の活動に協力した人々が集っていた。 「どうも弱ったなア。近来投書が、なかなか辛辣になってきましたよ。蠅男なんて、探偵の夢にすぎなかったのではないかなどというのがある」  と、帆村もつい滾《こぼ》せば、 「大阪府の警察で間に合わないようなら兵庫県の警察に頼んでみたらどうや、などと書いて来るやつが居る。なんで、隣りの警察の手を借りる必要があるんや。そういわれて腹が立たん者があるやろか」  正木署長も投書のハガキを握ってカンカンに怒っていた。  ひどい者になると、小包郵便で坊主枕を送ってきた。その附け文句に、 「こっちは枕を高うして睡られへんさかい、この枕はそっちへさし上げます。警官さんはお昼寝にお夜寝ばかりにお忙しいんだっしゃろから枕もさぞ痛みますやろ。そのときは御遠慮なく、この枕をお使い遊ばせ」  村松検事がこれを見て熊《くま》の胆《い》をなめたような顔をした。 「これは投書にしても、最悪性《さいあくしょう》のものだ。警察官侮辱も、実に極まれりというべきだ」  どうやら検事も、本当に怒っているらしい。  帆村も、この枕の小包には呆《あき》れるより外なかった。彼は差出人の悪意の籠《こも》るその美しい坊主枕をとりあげて、つくづくと眺め入った。 「オヤ、——」  と、彼はそのとき叫んで、枕に耳をソッと当てた。 「これはいかん。皆さん早く逃げて下さい」  そう叫ぶと、帆村は脱兎のように窓際にかけだした。そして川に面した硝子窓をガラリと明けるが早いか、手にしていた美しい坊主枕をエイッと川の中へ投げこんだ。 「どうした」 「どうしたんや」  と、皆はかえって帆村の方に駆けよってきた。そのときだった。  どどーン。  川中に、時ならぬ烈しい爆音が起り、枕を投げこんだところに、水煙が一丈もドーンとうちあげられた。 「呀《あ》ッ、——」 「ば、爆弾やあれへんか」  署員は悉《ことごと》く窓にかけよって、なおも大きく息をする河面を凝視した。 「爆弾仕掛の枕なんですよ」と帆村が汗をぬぐいながら説明した。「枕を持ってみると、コチコチと変な音がするので気がついたのです。なアに、よくあるやつですが、時計仕掛の爆弾ですよ。僕たちを皆殺しにしようと思ってたに違いありません」 「なんちゅう悪たれの市民やろ。断然取締らんとあかん」 「いや、これは市民といっても、普通の市民じゃありません」 「普通の市民でないちゅうと、——」 「つまり、これは蠅男が差出した小包なんですよ」 「うむ、な、なるほど」  一同はいまさらながらに、狂暴な蠅男のやり方に憤慨《ふんがい》の色を示した。    怪《あや》しき女 「おい帆村君。僕はまた君のおかげで命拾いをした。お礼をいう」  と、村松検事は、帆村の手を固く握った。 「帆村はん。私もお礼をいわしとくんなはれ」  と、正木署長もうやうやしく頭を下げた。  帆村はゆかしくもそれを冗談と受けながし、 「爆弾の危難は助かりましたから、それはいいとして、ここで考えてみなければならぬのは、蠅男がどうしてこんな精巧な爆弾を手に入れたかということです。こんなものは、どこでも作れるというものではありません。僕の考えでは、蠅男はかねてこんな爆弾を用意してあったのだと思います」 「そうだ。そのとおりだろう。蠅男は孤立した殺人魔だ。ギャング組織ではないと思う」 「それなら正木さん」と帆村は署長の方をふりむき、「僕は蠅男が依然として、鴨下ドクトル邸に出入しているのじゃないかと思いますよ。爆弾は、あの邸内のどこかに隠してあるのでしょう」 「そんなこと不可能だすな」と署長は不服であった。「警戒は屋内屋外にあって厳重にしとるのでっせ。そして邸には、ドクトルの遺児カオルはんと許婚《いいなずけ》の山治はんが、無事に暮しとりますんや。もし蠅男が入りこんだのやったら、どこかで誰かが見つける筈だすがな」 「いや、この爆弾を見ては、僕はどうしても蠅男が、ドクトル邸の秘密倉庫なんかに出入しているとしか考えられんです」 「秘密倉庫? そんなものが、どこかに拵《こしら》えてありますのか」 「もちろん僕の想像なんです。なお僕は、この小包を見て考えました。蠅男は、あまり遠くへいっていないということです」 「それはまた、なんです」 「小包の消印を見ましたか。あれは郵便局で押したものではなく、手製の胡魔化《ごまか》しものですよ。だからあの小包を持って来た郵便局の配達夫というのは、恐らく蠅男の変装だったにちがいありません。蠅男に対する監視は厳重なんですから、蠅男がここへ出てくるようでは、その辺に潜伏しているのに違いありません」 「そんなら、この小包を持って本署に来た配達夫が蠅男やったんか。そら、えらいこっちゃ。追跡させんならん」 「署長さん、もう遅いですよ。いまごろ蠅男は、どっかその辺の屋上に逃げついて、そこからこっちの窓を見てニヤッと笑っているでしょう」 「そうか、残念やなア」  蠅男が近所に潜《ひそ》むという帆村の推理に、村松検事も賛成の意を表した。  それではというので、すぐさま捜査隊が編成せられて、一行は直ちに鴨下ドクトル邸に向った。  厳重な捜査の結果、帆村の云ったとおり、はたして秘密倉庫が地下に発見せられた。それは、勝手許の食器棚のうしろに作られていたもので、ボタン一つで、自由にあけたてできるようになっていた。  一行は、いまさらのように愕いたが、中に入ってみて二度びっくりした。倉庫の中には、まだ五つ六つの爆弾やら、蠅男が使ったらしい工具や材料が一杯入っていた。 「さあ、そういうことになると、蠅男はどないして、ここへ出入したんやろ。そいつを調べなあかん」  正木署長は俄《にわ》かに奮《ふる》いたって、取調べを始めた。カオルも山治も、蠅男らしい人物がこの家に出入していない旨を誓った。  警戒中の警官も、同じことを証言した。  お手伝いさんが一人と、派出婦が一人といるが、お手伝いさんも知らぬと答えた。このお手伝いさんは城の崎の在から来ている人で、先日まで近所の下宿で働いていた身許確実な女だと知れた。  派出婦は、生憎《あいにく》外出していた。これは身許もハッキリしていなかった。年齢の頃は二十三、四。名前は田鶴子《たずこ》といった。顔は丸顔だという。 「田鶴子——というんだネ」  この田鶴子なる派出婦は、一行が到着する直前、ちょっと薬屋に買物にゆくといって出ていったそうだが、それがなかなか帰って来なかった。そこで警官の一人を、その薬局へ派遣して調べさせることにした。  間もなくその警官が帰ってきて、 「近所の薬屋を四、五件調べてみましたんやけれど、どの家でも、そんな女子は来まへんという返事だす。けったいなことですなア」  帆村はそれを聞くと、ポンと膝を叩いた。 「呀《あ》ッ。わかりましたよ。その田鶴子という派出婦は、もう二度とこの家にかえってきませんよ」 「なぜだい」検事が聞いた。 「いや、その田鶴子という派出婦は、蠅男の情婦のお竜《りゅう》が化けこんでいたに違いありません。蠅男では、到底《とうてい》入りこめないから、そこでお竜が化けこんで、秘密倉庫のなかのものを持ち出していたんです。丸顔といいましたネ。お竜を見た人間は、そう沢山いないのです。僕は宝塚で二度も見かけて、よく知っています。正にお竜にちがいありません」 「な、なんという大胆な女だろう」 「さあ皆さん、これによっても、蠅男はいよいよこの附近に潜伏していることが明白になったじゃありませんか。一つ元気をだして、蠅男を探しだして下さい」  帆村の言葉に、一座は急にどよめいた。    地下に潜る  こうなったら、死闘である。  恐るべき機械化された殺人魔を、一日いや一時間でも早く捕えることが出来れば、どれだけ市民は安堵《あんど》の胸をなでおろすか測りしれないのである。  帆村は、とうとう意を決して、警察側と全然|放《はな》れて、巷《ちまた》に単身、蠅男を探し求めて、機をつかめば一騎うちの死闘を交える覚悟をした。  それを決行するに当って、糸子の小さな胸を痛めないようにと、帆村は彼女の家を訪ねて事態を説明した。  糸子は帆村がこの上危険な仕事をすることに忠言を試みたけれど、彼の決意が、市民を一刻も早く安心させたいという燃えるような義侠心《ぎきょうしん》から発していることを知ると、それでも中止するようにとは云えなかった。 「帆村はん。これだけは誓うとくれやす。必要以上に、危険なことをしやはらへんことと、それからもう一つは、——」 「それからもう一つは?」 「それからもう一つはなア、一日に一度だけは、うちへ電話をかけとくんなはらんか。そうしたら、うち安心れて睡られます。よろしまんな」 「はッはッ、まるで坊やとのお約束みたいですが、たしかに承知しました。ではこれで、僕はかえります」 「あら、もう帰ってだすの。まあ、気の早い人だんな。いま貴郎《あなた》のお好きな宇治羊羹を松が切っとりまんがな。拝みまっさかい、どうぞもう一遍だけ、お蒲団の上へ坐って頂戴な」  糸子は、真剣な顔をして、いっかな帆村を帰そうとはしなかった。  帆村は予定どおり、夜の闇にまぎれて、浮浪者姿で天王寺公園に入りこんだ。 「こらッ、お前なんや?」  乾からびた葡萄棚の下に跼《うずくま》ったとき、ロハ台に寝ていた男がムクムクと起きあがって、帆村に剣突《けんつく》をくわせた。 「ああ、おらあ新入りなんだ。こっちの親分さんに紹介してくれりゃ、失礼ながらこいつをお礼にお前さんにあげるぜ」 「な、なんやと。お前、東京者やな。おれに何を呉れるちゅうのや」  帆村は五十銭玉を掌の上にのせてみせた。かの男は、たちまち恵比寿顔《えびすがお》になって、いやに帆村の機嫌をとりだした。 「ふーン、わしに委《まか》しといたらええねン。大丈夫やがナ。親分の名は藤三《とうぞう》いうのや。紹介したる、さあ一緒についてこい」  楢平《ならへい》という男の案内で、帆村は藤三親分の配下に臨時に加えて貰うことになった。  彼はここでも、いささか金を親分に献上することを忘れなかった。 「あんまりパッパッと金を使うのはあかんぜ」  と、早速《さっそく》親分らしい注意をした。 「へえ、相済みませんです」  それから藤三親分は、帆村にいろいろと仲間の習慣の話や、縄ばりのこと、持ち場などについて、こまごました注意を与えたのち、 「さあ、これは今夜の、わしからの引出物や。これを一枚、お前にやる」  と云って、一枚の紙札をくれた。  帆村が何だろうと思ってみると、それは新別府温泉プールと書いた一枚の入浴券であった。 「へえ、どうもこれは、——」 「今夜入ってきたらええやないか。そこは十日ほど前に建った大浴場兼娯楽場や。もちろんぬかりはあらへんやろが、わし等の行く時間は、午後十二時を廻ってからでやぜ。忘れんようにな。楢平にも、これを一枚やる」  親分は二枚の入浴券を下された。  帆村にとっては、甚《はなは》だ迷惑なことであった。そんなことよりも、早く蠅男の所在を探したいのだった。だが親分さまからの折角の下され物である。行かねば、後の祟《たた》りの恐ろしさも考えねばならない。やむなく帆村は、その新別府温泉プールなるものに、楢平とともにでかける決心をした。  だが、まさか其処《そこ》に、たいへんなものが待ち構えていようとは、ついぞ気がつかなかったのである。    砂風呂の異変  楢平と帆村とは、恐《おそ》る恐《おそ》るその新別府温泉プールの入口へ切符を出してみた。  プールでは、なんと思ったか、たいへん鄭重《ていちょう》に二人の入来を感謝してくれた。それも一に藤三親分の偉力《いりょく》のせいであろうと思われた。  裸になって浴場へ足を入れてみると、なるほどこれは、入浴ずきの大阪人でなければ、ちょっと出来そうもない広大なる共同浴場であった。その中央に、大理石で張りめぐらされた直径十メートルの円形のプールが作ってあった。そのまわりも広い大理石の洗い場になっていて、そこに二、三人の人たちが広々と両手両足をなげだして、湯にのぼせた身体をひやしていた。 「どこが新別府なんだろう。プールは別に別府らしくも何ともないじゃないか」  と帆村がいうと、楢平は指をさして、 「新別府ちゅうのは、この奥にある砂風呂のことや。そのわりに流行ってえへんけれどなあ。よかったら行ってみなはれ。ええ女子がおって、あんじょう砂をかけてくれるがな」といった。  帆村は妙な気になった。  今夜からいよいよ死闘だと覚悟していたのに、それがこんな風に呑気《のんき》に浴場に入って汗を流せるなんて、夢のような話ではないか。  しかし実をいえば、帆村もまた大阪人に負けぬくらい風呂好きであった。別府式の砂風呂と聞いては、もうじっとしていられなかった。楢平をプールに残しておいて、彼はその砂風呂のある別館の方へ手拭片手にノコノコと歩いていった。  なるほど別館建てのこの砂風呂は、思ったよりお粗末だが、ともかくも別府を模倣して、およそ二十畳敷くらいの一室全部を綺麗な砂で充たしてあった。そして、中には湯気がモヤモヤとたれこめていて、電灯がほの暗かった。  中はガランとしていた。  ただ一人、あまり上手ではない浪花節を、頭の天頂《てっぺん》からでるような声でうたっている客があるきりだった。 「——※[#歌記号、1-3-28]わざとよろめき立ち上り、心は後にうしろ髪、取って引かるる気はすれどオ。気を励ました内蔵助《くらのすけ》エ、——」  と、うたうは南部坂《なんぶざか》雪の別れの一節だった。この節は、頗《すこぶ》る古い節まわしだった。このうたい手は、砂の中から首だけだして、向うの壁に向いたまま、真赤になって唸っているのだった。  帆村は、これも奥へよったところを選び、両手で砂を掘って穴をこしらえていった。砂を掘ると、あとから湯がドンドン湧いてきた。彼はほどよい穴をつくると、そのなかにボチャンと身体をつけた。なかなかいい気持であった。  相客はまだ浪花節をうなりつづけていた。  帆村は身体をゴソゴソ動かして、その相客と同じように胸のあたりにしきりに砂を掻きよせた。  そのとき一人の女が、室内に入ってきたのを感じた。絣《かすり》の着物を、短く尻はしょりをして、白い湯文字を短くはいていた。  その女はいきなり帆村の方へやってきて、 「おいでやす。もっとうまいこと砂をかけてあげまひょうか」  といって、彼のうしろにまわり、肩のところへ砂をバサバサかけてくれた。 「ありがとう。もういいよ」  と帆村がいった。女は黙って、なおも砂を帆村の頸の方にまで積んでいった。女はさっきの愛想笑いに似ず、急に無口のようになって、帆村の頸のあたりに、妙な具合に両手をからませるのであった。 (変だぞオ)  と思ったその刹那《せつな》、それまで帆村の頸のまわりを戯《たわむ》れのように搦《から》んでは解け、解けてはまた搦《から》みついてきた女のしなやかな指が、板片のような強さでもって、帆村の頸をグッと締めつけた。彼は愕《おどろ》いて砂の中から立ち上ろうとしたが、女は盤石《ばんじゃく》のように上から押しつけていて、帆村の自由にならない。その上、女の指は頸をギュウギュウしめつけてくる。向うの相客に助けを求めようとしたが、声の出るべき咽喉がこの有様で、呻《うな》ることさえ出来なかった。そのとき向いのうしろ向きになっていた男が、急にピタリと浪花節をやめた。 「やれ、気がついてくれたか」  と思って悦《よろこ》んだのは、ほんの一瞬間であった。  相客《あいきゃく》は砂の中に、その長い頸《くび》をグッと曲げて、帆村の方を眺めた。彼はすべてを呑みこんでいるという風にニヤニヤと笑っているのだった。長い顔、そして大きな唇。その顔! 「おお、貴様は蠅男だな」  帆村は口の中で呀《あ》ッと叫んだ。  砂の中から出ているのは、蠅男の頸だったのである。悪逆残忍、たとえるに物なき殺人魔・蠅男の首に外《ほか》ならなかった。 「お竜《りゅう》、しっかり圧《おさ》えていろ」  蠅男は底力のある低い声で呶鳴《どな》った。  お竜! するといま帆村の頸《くび》を圧《おさ》えつけているのは、蠅男の情婦のお竜だったのだ。  よくもここまで帆村を引ずりこんだものである。いや、これは蠅男が一歩先の先まわりをして、ここに陥穽《かんせい》を設けておいたものであろう。帆村の想像していたとおり、天王寺公園付近に蠅男は隠れていて、そこを縄ばりとする仲間の誰彼と、緊密な連絡をとっていたものらしい。  帆村はいまや風前の灯であった。お竜がこの上グッと手に力を入れるか、それとも蠅男が砂の中から飛びついてくれば、もうおしまいだった。  帆村一生の不覚だった。  彼は頸を締めつけられるあまり、だんだん朦朧《もうろう》となってくる意識の中で、なんとかしてこの危難からのがれる工夫はないものかと、働かぬ頭脳に必死の鞭《むち》をうちつづけた。    死線を越えて  稀代《きだい》の怪魔《かいま》「蠅男」の暴逆《ぼうぎゃく》のあとを追うて苦闘また苦闘、神のような智謀をかたむけて、しかも勇猛果敢な探偵ぶりを見せた青年探偵帆村荘六も、いま一歩というところで、無念にも蠅男とお竜の術中に陥《おちい》り、いま湯気に煙る砂風呂のうちに惨殺《ざんさつ》されようとしているのであった。なんという無慚《むざん》、なんという口惜しさであろう。  お竜の十本の指がやさしき女とは思われぬ恐ろしい力でもって、帆村の頸を左右から刻一刻と締めつけてくるのだった。起き上ろうとするが、生憎《あいにく》首のところまで砂に埋っており、肩の上からはお竜のはちきれるように肥えた膝頭が、盤石のような重味となって圧《お》しつけているのであった。これでは身動きさえできない。 (参った。——しかしまだ血路の一つや二つはありそうなものだが!)  帆村は全身の血を脳髄のなかに送って、死線を越えようと努力をつづけていた。 「こ、殺される前に——」  と、帆村はふりしぼるような声をあげた。 「しッ、静かにしろ」  と、蠅男は依然として砂のなかから首だけだして眼を剥《む》いた。 「こ、殺される前に、一つだけ聞きたいことがある。く、頸をすこし、ゆ、ゆるめて……」  それを聞くと、蠅男はなに思ったか、お竜の方にそれとサインを送った。その効目《ききめ》か、お竜の指の力は、申訳にすこしゆるんだようだ。 「早く云え」 「うむ」と帆村は喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ「貴様は、なぜあの三人を殺したのだ。鴨下ドクトルと玉屋と塩田先生と、この三人を殺すには定《さだ》めし理由があったろう。それを教えてくれ」 「そのことか」と蠅男はたちまち見るも残忍な面になって、 「冥土《めいど》の土産にそれを聞かせてやろうか。鴨下というエセ学者は、五体揃った俺の身体を生れもつかぬこんな姿にしてしまった。自分のために、他人の人生を全然考えないひどい野郎だ。それを殺さずにゃいられるものか。玉屋のやつは余計なおせっかいをしやがったため、俺は永い間牢獄につながれるし、死刑まで喰った。俺が南洋で西山を殺したのは、金に目がくらんだためばかりではなかった。彼奴《あいつ》は、俺に勘弁ならない侮辱を与えたんだ。その復讐をしてやったのだ。塩田検事は、俺を死刑にしても慊《あきた》らぬ奴だと、ひどい論告を下しやがった。それがために、俺は無期の望みさえ取上げられてしまったのだ。どうだ、お前と俺とが入れかわっていたと考えてみろ。お前もきっと俺のようにしたに違いないんだ」  なんという恐ろしい告白だろう。一応条理はたっているつもりで、悪いと思うどころか平然と殺人をやって悔いないとは、正に鬼畜の類であった。 「まだ、やるのか」 「まだまだやっつける奴がいる。さしあたりお前をやっつけてやる」 「いつも脅迫状につけてあった、あの気味のわるい手足を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]がれた蠅の死骸は?」 「分っているじゃないか。手足のない俺のサインだ」  帆村は、すっかり観念したように装いながら、実はしきりと時間の経過するのを待っていたのだ。あまり長くなると、きっと連れの楢平が怪しんでこの砂風呂に入ってくるだろうから、そのとき騒げば助かるかもしれないと思っていたのだった。 「あの巧妙な手や足はずいぶん巧妙にできているが、一体何と何との働きをするんだ」 「あれはこうだ。まず右手の腕には……」  と、蠅男はついいい気になって、自分の巧妙な義手の話をはじめた。それを帆村は、さっきから待っていたのだ。突然彼は、 「えいッ」  と叫ぶなり、満身の力をこめて、砂の上にガバとうつ伏せになった。 「ああッ」  とお竜が叫んだときは、もうすでに遅かった。帆村の力にひかれて、お竜は強く前の方にグッとひかれ、ヨロヨロとなったところを帆村はすかさず、さっと身をうしろに開いたから、大きなお竜の身体は見事に背負い投げきまって、もんどりうって前に叩きつけられ、したたか腰骨を痛めた。それも道理であった。帆村はお竜の身体が、蠅男の首の真上に落ちかかるよう、うまい狙いをつけて、一石二鳥の利を図ったのだ。 「あッ、危いッ」  と蠅男が悲鳴をあげたが、既にもう遅かった。蠅男の首はズブリと砂の中にもぐりこんだ。  素晴らしい転機であった。  帆村の沈勇は、よく最後の好機をとらえることに成功し、辛《かろ》うじて死線を越えた。  帆村の身体は、いまや軽々と自由になった。  砂の中にもぐりこんだ蠅男の苦しそうな呻き声。だが不死身の蠅男のことであるから、そう簡単に、砂の中で往生するかどうか。  蠅男は、まるで怒った牡牛のように暴れだし、あたりに砂をピシャンピシャンとはねとばした。この怪魔に対し果して帆村に勝算ありや!    輝《かがや》かしい凱歌《がいか》  お竜が腰をおさえ、歯をくいしばっているのは、帆村にとってたいへん幸いだった。  帆村は素速く蠅男の背後にまわると、湯|交《まじ》りの砂の中にもがく蠅男を、うしろからグッと抱きあげた。 「ううぬ」  と蠅男は満身の力をこめて、抱えられまいと蝦《えび》のようにピンピン跳ねまわった。これを放してはたいへんである。帆村は両腕も千切れよとばかり、不気味な肉塊を抱きしめた。  蠅男は蛇のように首を曲げて、帆村の喉首に噛みつこうとする。 「もうこっちのものだ。じたばたするだけ損だぞ」  この言葉が蠅男の耳に入らばこそ、怪魔はなおも激しく抵抗する。さすがの帆村も、その大力に抗しかねて、押され気味となった。  だが帆村にはまだ、自信があった。  彼は蠅男を抱きしめたまま、悠々と砂風呂の出入口から外へ出た。そして足早につつーッと走ってプールのある広間に駆けこんだ。 「皆さん、蠅男をつかまえましたッ」  というなり帆村はそのまま、ザンブリと熱湯満々たるプールの中にとびこんだ。 「うわーッ」  と、これは蠅男の悲鳴だ。  帆村の作戦は大成功をおさめた。義足義手をつけては天下無敵の蠅男も、帆村に抱きしめられて暴れるたびに、ズブリズブリと水雑炊ならぬ湯雑炊をくらってはたまらない。二度、三度とそれをくりかえしているうちに、蠅男は、だんだんと温和しくなっていった。 「さあ皆さん。住吉署に電話をかけて下さい。署長さんに、帆村がここで蠅男をおさえていると伝えて下さい」  この場の唐突《だしぬけ》な乱闘に、プールから飛びあがって呆然としていた入浴客は、ここに始めて、目の前の活劇が、いま全市を震駭《しんがい》させている稀代の怪魔蠅男の捕物であったと知って、吾れにかえって大騒ぎをはじめた。  帆村が、この何処に置きようもない重い肉塊を抱えて、腕がぬけそうに疲れてきたときに、やっと正木署長をはじめ、警官の一隊がドヤドヤと駆けこんでくれた。 「どうした帆村君。いよいよ蠅男を捕えよったかッ」 「はア、ここに抱いて居ります」 「なにッ」と署長は目をみはり、「おおそれが蠅男か。想像していたよりも物凄いやっちゃア。待っとれ。いま皆におさえさせる。そオれ、掛れッ」  署長がサッと手をあげると、警官たちは靴のままプールの中にザブンと飛びこんできた。 「オヤ、——」  と近づいた警官が愕きの声をあげた。 「蠅男は死んどりまっせ」 「ええッ、——」 「こっちへ取りまっさかい、帆村はん、手を放してもよろしまっせ」 「そオれ、——」  警官隊の手にとって抱きとられた怪人蠅男の肉塊は、蒟蒻《こんにゃく》のようにグニャリとしていた。そして口から頤にかけて、赤い糸のようなものがスーッと跡をひいていた。血だ、血だ! 「舌を噛みよったな。ええ覚悟や」  と、いつの間に来ていたのか、正木署長が沈痛な声でいった。 「ああ、とうとう蠅男は死にましたか」  そういった帆村は、はりつめた気が一度にゆるむのを感じた。 「おッ、危い。どうしなはった、帆村はん」  鬼神のように猛《たけ》き帆村だったけれど、蠅男の自殺を目のあたりに見た途端《とたん》、激しい衝動のために、遂に意識をうしなって、警官たちの腕の中に仆れてしまった。 「無理もない。蠅男と、徹頭徹尾闘ったのやからなア」  そういって正木署長は、ソッと帆村の腕を握って脈をさぐった。      *  もちろん帆村は、間もなく意識をとりかえした。そしてあとは元気に、蠅男事件の後始末に力を添えたのであった。  その後になって、当時までまだ誰にも知られなかった無慚《むざん》な一つの事件が明らかにされた。それは事件の途中から行方不明になっていた池谷医師の屍体が、彼《か》の控家の天井裏から発見されたことであった。彼は蠅男のために、そこに手足の自由を奪われたまま監禁されていたのだった。そして誰も食料を搬《はこ》ぶ者がなかったままに、とうとう餓死してしまったものである。これも蠅男の残忍性を語る一つの材料となった。  池谷医師は、蠅男のような悪人ではなかった。ただ彼は蠅男から、一つの弱点を握られていたのであった。それをいうと、またくどくなるが、要するに蠅男の情婦お竜と昔関係のあった仲で、お竜は彼のために捨てられた女だったといえば、あとは誰にもそれと察しがつくであろう。彼はそんなことで、心ならずもある期間は蠅男やお竜と行動を共にしていたのである。  それはその年も押しつまって、きょう一日の年の暮だというその日の朝、大阪駅頭に珍しく多数の警察官を交《まじ》えた見送りをうけつつ、東京行の超特急列車「かもめ」号の二等室で出発しようとする一組の新夫婦があった。 「では、お大事に」 「新家庭は、いよいよ新しい年とともに始まるというわけだすな」 「まあ近いうち、お二人揃って大阪へ里帰りするのでっせ」  などと、朗らかな餞《はなむ》けの言葉はあとからあとへと新郎新婦の上に抛《な》げられる。  やがて、列車は出るらしく、ホームのベルはけたたましく鳴りだした。  そのとき人の垣をわけて、車窓にとびついた一人の紳士があった。これは村松検事だった。 「ああ、間にあってよかった。君たちの結婚を祝おうと思って、大きなデコレーションケーキを注文して置いたのが、ばかに手間どってネ。これなんだよ、やっと出来た」  と、車窓にさしだしたのは、大きな硝子《ガラス》器に入った見事なケーキだった。 「よく見てくれ、これは君たちの好きな大阪名物の岩おこしで組みたててあるんだが、一かけずつ製造所がちがっていて、味もちがっているのだ。これを二人で仲よく食べながら、たまにゃ大阪のことも思いだしてくれたまえ」  若き夫婦は、感激のいろを現わして、この素朴ながら念の入った贈物を感謝した。  ベルの音がハタと止った。いよいよ発車である。見送りの人たちは、いいあわせたように両手をあげて、二人の新しい生活の門出に万歳をとなえた。 「帆村探偵、ばんざーい」 「花嫁糸子さん、ばんざーい」  いまは夫と仰ぐ帆村荘六とチラリと目を見合わせて、新婦糸子は羞《はずか》しそうにパッと頬を染めた。  それを望んで、見送り人たちの中から、また大きな賑やかな拍手が起った。  列車は測《はか》りきれない幸福を積んで、徐々《じょじょ》に東へ動きだした。 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「講談雑誌」    1937(昭和12)年1月号〜10月号 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。